「男性」であることと「女性」であること。それに伴って生まれる差異を、比較的意識しないで済む生き方や所属をしてきたと思う。お互いが平等で対等な個人としてかかわることを前提とする、比較的「リベラル」な文化・環境に身を置いてきた。
そんな自分も、やはり男性であり、そしてそれが社会的には「マジョリティ」である。そのことを強烈に意識させられた本が、『82年生まれ、キム・ジヨン』(著: チョ・ナムジュ, 訳: 斎藤真理子, 筑摩書房)だ。
1982年生まれの33歳、夫と1歳の娘の3人で暮らす女性、キム・ジヨンが、ある日突然母親や同級生が憑依したかのような奇妙な言動を取るようになったことをきっかけに精神科を受診。男性の精神科医による症例報告というフォーマットで、彼女が生まれてから2016年現在に至るまでの人生が語られる。韓国で「社会現象」と呼ばれるまでの大ベストセラーとなったのち、日本でも2018年に翻訳版が発売された。
家や学校での男の子との扱いの差、就職先・給与・仕事の配属等々の男女の待遇差、飲み会でのセクハラ、そしてストーカーや盗撮といった性暴力。キム・ジヨンという一人の女性の人生を通して淡々と描かれるのは、現代社会を生きる女性が直面するさまざまな性差別である。
キム・ジヨン氏の母〜祖母の世代における伝統的な男尊女卑的価値観とその残滓、男性のみに課せられる徴兵制度、IMF危機など、小説の舞台となる韓国特有の文化的・政治的・経済的背景もある。だけど、それらを差し引いてもなお、これを読んだ女性たちが国を超えて「私たちの物語」として受け取り、何かを語りたくなるだけの強さを持った本だと思う。
とある読書会でこの本を題材に語ることになった。参加者の年齢に幅はあったけれど、概ねキム・ジヨン氏(小説内で33歳)のプラスマイナス5歳ぐらいには収まっていたと思う。女性メンバーたちの最初の反応として、『キム・ジヨン』で描かれているようなことは、まぁ多かれ少なかれ「あるある」だよねというトーンで共通していた。
多様だったのは、その「あるある」に対する個々人の感じ方、対処の仕方だ。
明に暗に、女性差別的な対応をされたとき、それをどれだけ鋭敏に感じ取るか。その上で、真っ直ぐ怒るのか、サラリと受け流すのか、静かに距離を空けるのか。学校や就職先、所属コミュニティの文化によって、「女性であること」がどの程度不利になったのか。その上で生存戦略として、自分自身の身の置き方をどのように決めたのか。
自身の経験の語り方、語るときの声のトーンや表情。そこに彼女たちが、僕の経験していない「痛み」をどう受け止めて処理してきたのか(あるいは処理しきれなかったのか)があらわれているように感じた。
その日の読書会は、選書もあってか女性参加者の方がはるかに多かったが、僕も含めて男性参加者もいた。話しやすい雰囲気と関係性が非常によく担保された場なのだが、それでもこのときは、自分から何かを語ることが、とても難しく感じた。
それは、自分が「男性である」ことの潜在的な加害者性を意識せざるを得なかったからだと思う。
本を読んでいてもっとも苦しかったのは、高校時代のキム・ジヨン氏が、予備校からの帰りのバスで味わった恐怖の場面だ。後ろの席の男子生徒が、「いつもニコニコしてプリントを渡してきた」というだけで自分に気があると勘違いし、キム・ジヨン氏の帰り道をずっとつけてきて、ついには降りた停留所で立ちはだかったという場面だ。危うく襲われそうなところで、同じバスに乗っていた女性が駆けつけてきたため、男子生徒は逃げていったが、その一件がきっかけでキム・ジヨン氏は予備校をやめ、しばらく笑えなくなり、身の回りの男性がみんな怖くなった。
読んだとき、普段は意識せずに過ごすことができていた自分のマジョリティ性を突きつけられたようで、しばし頭がクラクラした。
この男子生徒と自分は同じカテゴリーに属している。1対1になったとき、女性を恐怖に陥れ、あまつさえ押さえつけることのできる身体や力の大きさを持った「男」なのだ。
ひどいやつだと思う。同じ男性として許せないとも思う。実際に、全ての男性がそんなことをしているわけではない(”Not all men”)。そりゃ当たり前だ。しかし、いくら言い聞かせたとしても、自分が潜在的に「そうできる」力を持っているという事実は変わらない。
検査や指導と称して、不必要に女子生徒の身体に触れる高校教師。会食の場でキム・ジヨンを隣に座らせ、セクハラ発言を繰り返して下品に笑う取引先の部長。作中では他にも、キム・ジヨン氏や彼女の友人たちが受けてきたさまざまな性差別・セクハラ事案が描かれる。フィクションではない現実で、同じような経験をしてきている女性がたくさんいることも知っている。身近な友人たちから直接に聞いたこともある。読めば読むほど、自分が同じ「男」であることに、暗澹たる気持ちになる。
しかし…我が身を振り返って、これまで自分が一切の性差別や抑圧に加担していなかったと言えるだろうか。多かれ少なかれ自分の中にもある「男の子」性が、無邪気に誰かを傷つけたことはなかったと言えるのか。小学校での隣の席の女子へのいたずら、思春期の男子たちの集まりで語られる「誰がいい」「あいつは無いわ」といった品定め。「悪気はなかった」「ちょっと口が滑っただけ」「幼かった。今はそんなことしない」と言い訳するのはたやすいが、そうした小さな鈍感さの積み重ねが、誰かを傷つけていなかったと言えるだろうか。
「ひどいこと」をする男性たちへの嫌悪感。彼らと同じカテゴリーに属する自分の、潜在的な加害性への恐れ。そして実際に人を傷つけてきたに違いないという現実。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
女性差別の問題に対して、自分が「どの口で」何を語ることができるのか。生まれ持った自分の身体が偶然に男性であるゆえに、逃れ得ない「マジョリティ」性を前に、口ごもるしかなかった。
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「だけど、私たちも石を投げてきたかもしれない」
参加者の女性のひとりがそう発言した。
「被害者」としての経験を語る一方で 自分自分が女性差別や男性差別をしている可能性はないのか。マイノリティの立場であるからこそ、そのことに対する意識や想像が難しい部分もあるという。
「男性」と「女性」というマクロな切り分け方をしたときに、確かに性別格差・性差別は存在する。しかし、同じ「男性」「女性」集団の中にも世代・教育レベル・経済レベル・地域性などによって支配的な価値観や選択傾向を持ったさまざまなクラスター(小集団)が存在し、当然、個人レベルで言えばもっと多様な価値観と選択パターンが存在する。そして、自分が属するクラスターにおいてマイノリティとなるような選択をした人は、周囲からのプレッシャーを受けたり、自分自身の選択に自信を持ちづらかったりするのだ。
たとえば「男性」会社員が長期の育休を取る、または専業主夫になるという選択は、男女の機会均等を求めるリベラルなクラスターの中では称賛・受容されやすいかもしれないが、社会全体で見れば少数派となる。大半の日本企業では、まだまだ「男性はよく働き、会社で活躍し、出世し、稼いでいく」という暗黙の前提があり、育休を取ることが出世レース上で不利に働いたり、専業主夫になる男性が下に見られるといったことはあるだろう。「女性」の中でも、高学歴でキャリア志向の強い女性が多いクラスターの中では、出産を機に仕事を辞める「寿退社」を選ぶことに躊躇いや劣等感が生じやすいかもしれない。
僕が参加した読書会も男女共に高学歴の参加者が比較的多かったが、出産を機に仕事を辞めたという人が何人かいた。本当は両立したかったが泣く泣く諦めたという人もいれば、もともとそう望んでいたと語る人もいる。産休・育休は可能な限りギリギリまで短くし、すぐに仕事に復帰したという人、もともと仕事も楽しかったけれど、いざ生まれてみると育児が楽しくて、少し考えたけどあまり迷わずに退職を選んだという人、それほど急いではいないけれど、いずれは、また働きたいなぁとは思っている、という人。グラデーションの中には他にもさまざまな選択肢が散らばっている。
男女の機会均等、とりわけ女性の就業機会拡大が、その実態やスピードに課題はあれど、大きな傾向としては進展していく。経済的な理由も相まって「夫婦共働き」がスタンダードになっていく。そうした中でも、個人レベルでは当然、専業主夫/主婦になりたい、あるいはそれを選ぶ人たちはいるはずだ。しかし、高学歴・キャリア志向が強いクラスターであればあるほど、その選択はマイノリティとなり、暗にヒエラルキーの「下」として見られる傾向が強くなる。
参加していたとある女性が「私はもともと専業主婦になりたいと思ってそれを選択しただけなのに、どうしてそれを”降りる”とか”ドロップアウト”だとか言われなければいけないのか」と憤りを表明していたのが印象的だった。
本来なら個々人が自由に、フラットに社会的な役割を選択し、また行き来して良いはずだ。しかし男性である、女性であるという生物学的な差異と、歴史的に形成され、また変化していく「男女」にまつわる支配的な価値観や選択の傾向が、一回きりの人生である「わたし」の人生に否応なしに影響を及ぼしてくる。特に結婚・出産・育児というライフステージの節目においては、そもそも別種類であるはずの「あなたとわたし」の問題と「男女」の問題が同一視されやすい。
生まれた性別と時代に紐づく、逃れ得ないマジョリティ性・マイノリティ性に対して、一人ひとりの「わたし」はどう向き合えば良いのだろう。
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読書会のあと、思い出したことがある。
自分より世代が上で、もっと女性差別が強かった時代に自分の力でキャリアを切り開いてきた、そんな「強い女性」たちに、人生のいくつかのタイミングで、出会い、かかわり、教えを受けるなどした。ほとんどの方とは今はもう会っていないし、連絡を取ることもない。記憶も少しずつ薄れ、混ざり、変容もしているだろう。ぼんやりと、ただぼんやりと、いくつかの表情と言葉を帰り道に思い出した。
「ノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」ということをよく言われた。恵まれた立場にあるものは、その能力やリソースを、恵まれない立場にあるものも含めた社会全体に奉仕するために使うべきだという考えだ。当時の僕は、「ノーブレス」という形容詞への違和感や、それを語る人たちの「お説教」的物言いへの嫌悪感や、モラトリアム真っ只中で自分が生きるのに必死なのにそんな義務を勝手に課されたくないよという逃避から、その言葉を受け取ることを拒んでいた。
少しは大人になって、自分より若い世代と仕事等で関わることが増えた今も、僕はこの発想には与しない。その考え方が生まれた背景や社会構造に一定の理解はするものの、複雑で多様な人間を、能力や立場の強弱二分することの限界、「強い」側からの視点だけで社会を捉え、変革しようとすることの欺瞞を感じるからだ。
けれども、個人的な主義主張・好き嫌いを脇に置いて、その言葉を僕が受け入れにくかった理由は別のところにあったのだろう。
つまるところそれは、「男性」と「女性」の問題である。この社会で男性として生きること、女性として生きることで背負う構造の問題である。年齢・経験・キャリアの差、そして「教える」「教わる」という師弟関係において、彼女たちの方が僕より「強い」立場にあったからこそ、「男女」の問題が一層際立った。表立ってそこに触れることはほとんどなかったと思う。あくまで「わたし」と「あなた」の会話をしていたはずだ。だけど当時の僕は、無意識下にプレッシャーを感じていた。
女性が働く上で直面するさまざまな見えない障壁の喩えとして「ガラスの天井」という言葉がある。就活や職業選択、業務上のやり取り、配属や昇進等のさまざまな場面において、時に露骨に、時にやんわりと示される「女性であること」による差別。統計的には、従業員や、役員構成や、育休取得率の男女間ギャップといったもので可視化される。現在でもまだまだ残っていると言えるだろう。
僕が思い起こす女性たちはいずれも、ガラスの天井が今よりもっと分厚かった時代に戦ってきた人たちだ。大学入学時も就職時も、まわりはほとんど男性だったと、折に触れてエピソードも聞いた。男性社会で勝ち抜いていくことは事実大変だったと思うし、彼女たちのような先達一人ひとりの戦いが少しずつ女性を取り巻く環境を変えてきた、その歴史と痛みを思うと頭が下がる。
「ノーブレス・オブリージュ」とはきっと、そんな時代を生き抜いてきた彼女たちの矜持を表す言葉だったのだろう。自分たちが身を持ってその過酷さを体験してきたからこそ、下の世代に伝えたいこと、期待することが山程ある。
そんな彼女たちからすると当時の僕は、見ていてイライラする存在だったかもしれない。「あなたは、(男性としても若い世代としても能力としても)恵まれたものを持っているのに、どうしてそんなになよなよしているのか」と。事実、所属コミュニティの中で僕はダントツにこじらせてなよなよしていたし、みんなが着々と就職や進学先を決めていくなか行き当たりばったりでフラフラしていたし、女性メンバーの方がよっぽど優秀でしっかりしていたと思う。
とはいえ当時の僕は僕なりに、フラフラしながらもそれはそれで必死に悩んでいたものから、彼女たちの期待に応えて「力強く」生きていくことはどっちにしろできなかった。若かった、未熟だと言えばそれまでだけれど、別れはある種の必然だったのだろう。
先に言った通り、どれも1対1の、「わたし」と「あなた」の話なのだ。生きる上での価値観とタイミングが合わなかっただけに過ぎない。彼女たちも僕も、同級生たちも、誰も男性全体、女性全体を代表することなどできないはずだ。
それなのにどうして今になって思い出すのか。そこにはやっぱり、時代と世代のギャップによって重み付けされた、女性性・男性性のぶつかりが、「わたし」と「あなた」の関係の”中”に、無視できない重さで内包されていたからだと思う。
時計の針を巻き戻すことはできない。巻き戻したところで、当時の僕が話せたことはないかもしれない。
そうだとしても、無視できない男性性・女性性を自覚した上での「わたし」自身の問題として、彼女たちとの別れをもう一度受け止め直したとしたら、僕はこれからどうあるべきだろう。読書会の帰り道にそんなことを考えた。
「選べない」ことも含めて、自分なりの方法で運命を引き受ける。結局はそれしかないと思う。
自分が「男性」であることそれ自体について回る、潜在的な加害性を自覚すること。不当な差別や性搾取に対しては断固としてNOと言うこと。男性たちの内なるミソジニーを意識し、それが表出する場面に同調しないこと。
また一方で、「あなたは男だから」「男なのに」という逆向きの偏見に対しては、臆することも遠慮することもなく「僕”は”それを選ばない」と表明すること。
性別に伴うさまざまな痛み・苦しみを生み出している「社会構造」。自分がその一部であること、いつでも加害者になりうることからは目を背けない
その上で「今、この場で、わたしとあなたはこれを選ぶ」ということにお互いが納得できるまで向き合うこと。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
そんなことを言えば、罪を犯したことのない、一切手が汚れていない「ノーブレス」な人間なんていないのかもしれない。
「男女」の問題はそれぐらいにこじれやすくて、一筋縄ではいかなくて、しんどい。
でもそのしんどさからは逃げない。ここに留まって生きていくことはできる。
ノーブレスではないかもしれないけれど、少なくともオーネストでありたいと思う。