絶望を分かち合うという希望 - 熊谷晋一郎さんインタビュー

「わたしらしさ」、「わたしらしい生き方」「わたしのキャリアプラン」……「わたし」を主語にした、そんな語りを見聞きすることがずいぶん多くなったように思う。こうした言葉はたいてい、わたしの人生には無限の可能性があって、自由にかたちづくることができるのだという、前向きな意思や希望を伴った文脈で発せられている。

しかし、「わたし」とはそれほど自由な存在なのだろうか。病気や障害の苦しみや心の痛み、うまくいかなかった仕事や人間関係、忘れてしまいたい傷やトラウマ…それらも全部含めて「わたし」なのだとしたら、むしろ不自由でままならないことの方がよっぽど多いのではないだろうか。

風邪を引いたら休んで治せばいいし、仕事で失敗したら、謝って改善すればいい。大きなトラブルが起きていない「日常」においては、そんなに難しいことを考える必要もないだろう。だけど、病気や障害、別離やトラウマ経験を抱えた人間にとっては、そんなに簡単に「わたしらしく生きる」なんて前向きなことは言えないよなぁ。思い通りに動いてくれない身体と共に生きながら、そんなことを考える。

「わたし」には、無限の可能性があるわけではない

「残念なお知らせになりますが、身体にも歴史にも、可変性には限界があります。『わたし』という存在は、どこまでも無制限に変わっていけるというものではなく、有限なんです」

そう語るのは、熊谷晋一郎さんだ。障害や病気の当事者が、グループで経験を分かち合いながら自身の困りごとを研究対象としてときほぐしていく「当事者研究」という営みに携わる研究者であり、小児科医であり、そして脳性麻痺の当事者である。

「わたし」がわたし自身であると実感できること、つまりその人自身のアイデンティティを成り立たせているのは、2つの要素であるという。わたし自身の身体は取り替えがきかない、世界でただひとつの身体であるということ、つまり、「身体のアイデンティティ」。もう一つは、わたしは他の人が経験したことのない固有の経験を持って生きているという、「歴史としてのアイデンティティ」。この2つに共通するのが、”有限である”ということだ。過去(歴史)は変えられないし、身体も、努力によって変えられる範囲と、変えられない範囲がある。「わたし」という人間はそもそも、制限なしには存在しないのだ。

それでは、病気や障害による症状、望んでもいなかった出来事や経験……そういったさまざまな「痛み」すらも、自分の人生の有限性として、我慢して生きていくしかないのだろうのか。それとも別の道があるのだろうか。

「有限性の中で、ともかく私たちは生きていかないといけません。有限性を否認せず、認めた上で、じゃあわたしはどのような生き方をするのか。その意味を見出していくのがおそらく、『回復=リカバリー』ということなのだと思います」

身体と歴史の有限性を前提とした上で、「わたし」が「回復」していくとはいったいどういうことなのか。話はここから、熊谷晋一郎の個人史に移る。

リハビリに明け暮れた幼少期。「どうしてこの身体のままで社会に出てはいけないのか」

「この写真はおおよそ3歳くらいの私の写真です。私を支えて後ろに写っているのは私の母親で、一緒にリハビリをしている様子になります」

熊谷さんが生まれたのは1977年。生まれつきに脳性麻痺のあるため、自分の足で歩くことができず、物心つく前から毎日約6時間、リハビリに明け暮れる日々だったという。当時の回復の定義は、「健常者に近づくこと」であり、脳性麻痺の子どもたちは、健常者に近い身体を獲得することを目標に、とにかくリハビリをするのがスタンダードな時代だった。

しかし、学術研究の進展と共に、世の中の認識も変化していった。70年代には「リハビリをすると脳性麻痺は治る」と主張する論文が大量に出版されていたのが、80年代に入ると、それは誤りであったと、それまでの社会通念を否定する論文が多く出版されるようになる。

「80年代で大きく『回復』の定義が変わりました。「障害というものは、皮膚の内側にあるものではない、皮膚の外側にあるものだ」と考えるようになったんです」

いわゆる、障害の「医療モデル」から「社会モデル」への転換である。脳性麻痺で車椅子に乗っている人が、近くにエレベーターが無いゆえに自由に移動できない。この時に「私の足が悪いから」と考えるのが医療モデル、「エレベーターを設置していない社会の側が障害をもたらしている」と考えるのが社会モデルだ。

学術研究や障害当事者による社会運動によって、「社会モデル」の考え方が主流になっていく過程を、当時の熊谷少年も肌で感じながら成長していった。自分と同じ脳性麻痺をはじめ、さまざまな障害のある“先輩”たちが街に進出し、声を発していく様子を見て、「自分も社会に飛び出していきたい」と思ったという。

「それまでは、『健常者並になったら社会に出られるようになる』と信じ込まされて、健常者並みになれない障害者は地域社会に出られないという時代でした。

『いやいや、そうじゃない、自分たちはむき出しの体のままで社会に出て良いんだ!変わるのは社会の方なんだ』と、先輩たちが道を切り開いてくださったわけです。そんな姿を後ろから眺めていた私は、すごく勇気付けられたことを覚えています。

『先輩と同じように自分もこのむき出しの体のままで社会に出てみたい、そうするしか生きられる道はない』、10代の後半には、そんな気持ちになっていたんです」

不安を感じたら飛び込んでしまえ!一人暮らしをはじめて、世界の見え方が変わっていった

「むき出しの身体のままで社会に出てみたい」

成長し、青年となった熊谷さんは、大学上京を機に一人暮らしを始める。親からは相当反対されたが、このチャンスを逃したら社会に出るきっかけを失ってしまうという焦りがあった。

ただでさえ、大学進学による上京は若者にとってちょっとした冒険である。ましてやこの身体、苦労するのは目にみえている。それでも、一人暮らしを始めた熊谷さんにとって何にも替えがたかったのは、初めて経験した「自由」の感覚であったという。

「一人暮らしを始めて、それまでと何が一番違ったかというと、監視している親の目がない、ということなんですよね。親にとってはそれが愛情だったと思いますが、幼いころからとにかく健常者と同じようになることを目標に、ちゃんと健常者っぽく動いているかな、と一挙手一投足を観察され続けていたわけです。それがなくなったことは、大きな変化でした」

例えば……と見せてくれたのは、熊谷さんがコップを持っている様子の写真だ。

熊谷晋一郎さんが手の甲で挟むようにしてコップを持っている様子

親と一緒に住んでいた時にこうした持ち方をすると、健常者と同じように手のひらでコップを持つようにと矯正指導が入るのが日常だった。しかし、一人暮らしではそのような他者からの指摘は入らない。あるのは自分とコップ、その2者のダイレクトな関係だけ。ここで始めて、周囲から強いられた「健常者」像に引っ張られることなく、脳性麻痺という身体障害のある熊谷晋一郎自身にとって、また相対するコップという道具にとって、お互いに無理のないオリジナルなかかわり方が誕生していったのだという。

「人が監視していない空間での、物と私のかかわりの中で、私の身体が認められるような、私の身体の有限性が否認されないようなライフスタイルを生み出していくという経験ができたんです」

他にも大変なことは多かったが、一人暮らしを始めて起こったパラダイムシフト(価値観の変容)もあったという。

「親と暮らしている時は、とにかく自分の将来に対して不安しかなかったんです。将来どうなるんだろう、親が死んだら自分ものたれ死ぬのだろうかという、極めて抽象的な、無限の不安に囚われていました。

しかしいざ、一人暮らしという環境に飛び込んでみると、“無限で抽象的な不安”が、“有限で具体的な課題”に変わったんです。トイレに行く、外出する、あったかいご飯を食べる、お風呂に入る、お布団で寝る……これくらいが満たされていれば、だいたい生活は事足りるんですよね。つまり、解決すべき課題は、無限なんかじゃなく、片手でおさまるぐらいしかなかった。じゃああとは、ゲームをクリアするように一つずつ課題をこなしていけばいい。するとだんだん、楽しくなってくるんです」

無限で抽象的な不安があったら、とりあえず飛び込んでみよう。課題は有限で、一つひとつやっつけていけば、自分のこの身体でも乗り越えていくことができる。これが、熊谷さんが一人暮らしで得た教訓だった。

渋谷の中心でおもらししたと叫ぶー世界はじんわり、あたたかかった

一人暮らしを送る上で立ちはだかる「課題」のうち、熊谷さんにとって最も大きいのはトイレの問題だった。

家のトイレは自分の身体に合わせてある程度は改造することができる。しかし、外に出ている時だとそうはいかない。多目的トイレへのアクセスは限られていて、どうしても間に合わないこともある。今でもやむを得ずおもらしをすることがあるという。

この「おもらしをする」ということは、子どもの頃の熊谷少年にとって、母と自分の間だけの秘めごとだった。学校の教室などでおもらしをすると、すぐに母が飛んできて自分を抱えてトイレにつれていく。そして身体を洗われ、着替えさせられ、何事もなかったように教室に戻されていく。

「秘めごとがあるということは、共依存を引き起こしやすいんです。『あなたのことを本当に支えられるのは私だけだ』と、安全な依存先を独占することで支配するという形の共依存です」

おもらしをしてしまうことは恥ずかしいことで、隠すべきもの、周囲に語るべきではないこと。そのような前提のもと、母の庇護を、言い換えれば監視を受けていた。

けれど彼は叫びたかった。

「私はおもらしをする存在なんだ、これが等身大の私なんだ」と世界の中心で叫びたかった。

なぜ身体の障害があるというだけで、こんなにもあれこれを隠して生きていかねばならないのか。

若き熊谷青年は実際に叫ぶことになる。渋谷の真ん中で。

18歳の頃、同級生と一緒に3ヶ月間の「実験」を試みた。「おもらしをしてしまったので助けてほしい」と、渋谷の街中で周囲の人に呼びかけるのである。やってみると約5割、つまり半分の人が実際に助けてくれたという。これは熊谷さんにとってまた一つの大きな発見であり、そして希望だった。

「少し大げさな表現をするならば、おもらしをするという“絶望”が、誰かと分かち合うことで“希望”に変わったんです」

大人になっても未だにおもらしをしてしまう、有限で不便な自分の身体。親と共依存しながら、おもらしを隠して生きていくしかないと思っていた。それが、自分の秘密を他人に開示すると、半数の人が助けてくれた。社会は健常者並にならないと生き延びられない怖い場所だと信じ込まされていたけれど、ありのままの自分でも意外と受け入れてくれる。

「ちなみに、付き合ったばかりの初々しいカップルが狙い目です(笑) 。いいところを相手に見せたいなと思っている人に対しては、私の存在はちょっとしたアトラクションですよね。『私、おもらしをしております。助けてくれませんか(私を救ったら、株が上がりますよね?)』という感じで、アプローチすると、まずやってくれます。あとは、宗教活動をされている方で、私のような障害者を見るとお祈りしてくる方とかも、『祈っているヒマがあったらケツを拭いてくれ』と(笑)。これは冗談ですが、とにかく私が予想していた以上に、色んな人が助けてくれることがわかったんです」

「街」に出てみると、色んな人が思い思いの目的で自由に過ごしている。お互いの思惑はそれぞれでも、ふとしたきっかけで話しかけてみると、意外と簡単につながることもある。家やリハビリ施設の中の固定された関係性の中では想像もできなかった、世界の広がりに触れた瞬間だった。

「失敗を許容する文化」こそが、人の可能性を拡げてくれる

時に誰かの助けを借りながら、脳性麻痺のある自分の身体に合ったオリジナルの動きを編み出し、熊谷さんは生活をかたちづくっていった。わからないことがあれば飛び込んでみる。失敗しながらでも、一つひとつ課題をこなしていけばなんとかなる。このまま生きていける気がする……ところが、仕事を始めてからは、そうはいかない事態に直面することになった。

大学の医学部を出て、研修医として小児科で働き始めた熊谷さん。ここでは「クライアント(患者)」という、今までとはちがった関係性の他者と向き合うことになった。

「一人暮らしと職業生活の何が違うかというと、『わたしの失敗の対価を誰が払うのか』ということです。対価を払うのはクライアント、患者さんです。一人暮らしの時のように、気楽なトライアンドエラーはできないんだということに気づいたんです。

たとえば採血が一度でうまくいかないというのは、研修医なら多かれ少なかれみんな経験する失敗だ。しかし、熊谷さんの場合は、子どもの親から見た時の“失敗のインパクトが大きい”のだという。研修医で、しかも障害のある医師になんか大事なわが子を預けられない、「担当を変えてください!」と言われてしまう。

なんとかしようと、帰り道に100円ショップに寄り、一人で採血ができるように夜な夜な怪しいオリジナルキットをつくる日々……しかしそれでもなかなかうまくいかない。

「おかしな道具を持ちこんでは採血に失敗する、赤ちゃんは泣く、お母さんはカンカンになる、緊張で手が震える、帰りにまた100円ショップに寄って道具をバージョンアップする、しかし翌日また失敗する…そんな悪循環に陥ってしまったんです」

焦りと失敗の悪循環の日々に変化をもたらしたのは2年目の研修先と、そこで出会った一人の恩師だった。

2年目の研修で熊谷さんが配属された病院は、とにかく忙しいことで有名で、スタッフ一人ひとりが「自分一人では現場を回せない」という感覚を共有していたという。脳性麻痺という身体障害のある熊谷さんに限らず、働く上では誰もが何らかの「障害」があることを前提に、お互いに持てるものを出し合って支え合うという文化があった。苦手な採血についても、恩師である小児科部長の先生の一言がきっかけで、ブレイクスルーが生まれた。

「いつものように緊張しながら採血に挑もうとしていたある日、先生が私の耳元で『熊谷先生、何をためらってるの?ブスッといきなさいブスッと。責任は僕がとるから』と言葉をかけてくれました。先生の言葉がきっかけでスーッと身体から力が抜けて、初めて一回で針が血管に入ったんです。そこからは不思議なもので、コツを覚え、ほとんど採血を外さなくなりました」

働く現場では、誰もが忙しいなか、できることとできないこと(≒障害)を抱えている。だからこそ、失敗を許容する組織文化と、何かが起こった時に失敗の責任を取るというリーダーシップが存在すること。この2つがあってこそ、一人ひとりが「わたし」の持てるものを差し出し合いながら、チームでクライアントに向き合うことができるようになるのだという。

32歳で体験した身体の異変。「わたし」の物語を組み換えるとき

「やればできる、健常者になれる」と、あたかも“無限の”可能性があるかのようなプレッシャーのもと、終わりのないリハビリに明け暮れていた頃から、自分自身の身体の有限性を前提にした独自のライフスタイルを確立した熊谷さん。

他の人とは違うけれど、自分なりの身体の使い方、道具や周囲との関わり方ができてきた。仕事も、失敗を許容する組織文化に支えられながら、自分なりにスタイルを確立して小児科医として一人前に働けるようになった。

「なんとか順調な人生を歩んでいけそうだ。これが自分の人生なんだ」という手応えをつかんだ矢先のこと。熊谷さんは、思わぬところからの逆襲を受けることになる。それはなんと、「自分の身体」だった。

32歳のある日、朝起きたら突然左手に電気が走るような痛みを覚える。続いて首筋の後ろ側にも激しい痛みが走り出した。脳性麻痺のある人は、30代前後でこうした全身の痛みを経験することが多いという。それが熊谷さんの身体にも起きたのだ。

「私の身体はいったいどうなってしまったんだろう。昨日までの身体と今日の身体は明らかに違う。けれども、何が起こっているのかがわからない。今までどうにかうまく付き合ってきたはずの、有限な『わたしの身体』に関する見通しを失ってしまった。そうなったとき、何に一番困るかというと、ことごとく意思決定が不可能になるんです」

いつものように寝返りを打っていいのだろうか、取り返しのつかないことは起きないだろうか、昨日と同じようにベッドに乗り移っていいのだろうか、今まで通りトイレに行ってもいいのだろうか、職場に行っていいのだろうか……。昨日までは何も迷いもなく決定できたことが、決められない。身体に対する見通しを失ったことで、また無限の不安に飲み込まれてしまうという経験。熊谷さんにとっては、痛み以上に、不確実な未来に対する不安の方が、苦しかったという。

 

とにかく早くこの邪魔な痛みをとってほしい。この痛みさえなければ、またわたしは自立した生活に戻ることができて、順調な物語を歩み直せるのに……そんな焦りから病院を巡り、ドクターショッピングを繰り返すも、「どこも悪くない」と言われ、一向に原因がわからない。

医者が分からないなら自分で調べて知識を得よう、この痛みの正体を知ろう、と文献を読みあさるなかで、ひとつの手がかりに出会った。

人の痛みには、直接の原因を特定できる「急性疼痛」と、直接の原因がわからない「慢性疼痛」がある。そして慢性疼痛は、過去の自伝的記憶ートラウマやPTSDに関係する脳の部位との関連が深いのだという。

わたしのこの痛みは、もしかしたら自分の過去の記憶からのメッセージなのかもしれない。この痛みは、取り除くべき邪魔な存在ではなく、意味があるのかもしれない。そんな感触を得ながら向かった3回目のドクターショッピング。専門医がいると聞いてやってきた場所は、奇しくも熊谷さんにとっての“トラウマ”の場所、研修医1年目の挫折を経験した東大病院だった。

「本当は近づきたくない場所でした。『誰にも気づかれませんように……』という願いもむなしく、すれ違う人に『あぁ、熊谷くん』ってどんどん声をかけられるんですよね。いたたまれない気持ちで診察室にたどり着いて、担当医は全然知らない人であってほしいなと思いながら中に入ると、そこにもやっぱり知り合いの先生がいて、『あぁ、熊谷くん!』とまた言われちゃって(笑)。でもその瞬間、自分の中でタガが外れたような感覚があって。自分をよく知るその先生に、わーっと自分語りをしてしまったんですよね」

自分をよく知る整形外科医の前で、これまでの自分の人生をとめどなく語り続ける。それはまるで教会での神からの自分の罪への赦しと和解を得る「告白」のようだった。

話し続けるなかで熊谷さんは気付いた。社会で生きていけるように、たくさん工夫を重ねて頑張ってきた。そしてそれはある程度うまくいっていたように思えていたけど、その裏でわたしはたくさん、傷ついていたのだと。

この痛みは、やはり傷つき続けてきた「わたし」の身体からのメッセージだったのだ。

「医者の愚痴ってなかなか吐けないんですよね。でも、話をしたのが知り合いの医者だったことで、話そうという気持ちになることができたんです。そのとき不思議と、痛みが和らいだんですよ」

痛みを「邪魔なもの」として取り除こうと考えている間は、慢性疼痛はかえって悪化していくばかりだった。自分の身体に無理を強いてきたこれまでの歴史の繰り返しではなく、新しい物語を編み直すきっかけとして、痛みの「意味」を捉え直す。それによってはじめて痛みが和らいだという。

理想と現実のギャップは、仲間と言葉で埋めていく

痛みには意味がないと解釈し、取り去ろうとすることは、かえって回復を遠ざける。

生活の見直し、人間関係の見直し、物語の編み直し……「痛み」という症状には、何か自分にとっての変化の契機となるようなメッセージが宿っているのではないか。脳性麻痺当事者としての自分自身の身体を通してそのような実感を得た熊谷さんは、「当事者研究」という営みに本腰を入れていく。

当事者研究とは、障害や病気の当事者が、 困りごとの解釈や対処法について、医者や支援者に任せきりにするのではなく、 困りごとを研究対象としてとらえなおし、 似た経験を持つ仲間と助け合って、 困りごとの意味やメカニズム、対処法を探り当てる取り組みだ。

医師や支援者ではなく、他ならぬ「わたし」にとって、この障害や痛みはどういう意味を持つのか……。それを問いかける当事者研究だからこそ、「仲間」の存在が不可欠なのだと熊谷さんは語る。

「トラウマというのは、自分の経験に意味をつけられていないときに起こるものなんです。自分の人生の物語の中で、ある経験については意味を与えられていない。そんなときに傷となって疼き続けるわけです。

では、意味を与えるとはどういうことか。それは、『自分の経験した出来事は、くり返し起きている出来事のカテゴリーの一例である』という類似性を見つけることなんです。ところが、『わたし』が生きる歴史というのは、1回きりなんですよね。自分の身には1度しか起きていない出来事だから、自分1人だけではカテゴリーを発見できないんです。

そんなときに必要なのが、他者ー『あなた』の存在なんです。似たような経験をした当事者同士で経験を分かち合えば、自分や相手にとっても1回きりの経験でも、2回になります。“ある”と“ある”で、“あるある話”になるって感じですね。まったく同じ出来事ではないけれども、『あなたもそうなんだ』と共通のカテゴリーを抽出できることがある。それを自分の経験に当てはめることが、1回性の出来事に意味をつけて、物語にしていくことなんです」

「わたし」という存在は、わたしがたった一人で考え続けてもいっこうにその正体が見えてこない。「あなた」という他者と隣り合い、お互いの共通点や違いを見出すことを通して、はじめて「わたし」の輪郭が浮かび上がってくる。まったく同じではないものの、比較的似た経験をした、困難の「当事者」同士で集まることの意味はそこにある。

「私が研修医として働いていた頃には、よく『患者とは深い関係になってはいけない。距離を置きなさい』と言われてきました。1対1で距離を近づけ過ぎると自他の境界が崩れて『転移』や『共依存』といった状態につながるおそれがあるためですが、薬物依存症当事者研究の先輩たちは、これとは少し違う考え方を教えてくれました。

『距離を空けていたままで回復するわけがない。全力で向き合いなさい。相手がびっくりするほど距離を詰めなさい。ただし、みんなでね』と」

深いトラウマを抱えていたり、薬物やアルコールなど特定の物にしか依存できない経験をしてきた人が、経験に意味づけをし直して新しい回復の物語を紡いでいくためには、これまでと違った他者との密接な繋がりを編み直すことが不可欠なのだという。しかし、そうした困難の渦中にいる人と支援者が1対1で近づき過ぎると、薬物に代わる新たな依存対象を再生産しかねない。

薬物だけ、医療者だけ、親だけ、施設だけ……なにか“1つ”だけに依存するのではなく、依存先を適度に分散させていくことが必要になる。だから、“全力で”かつ“複数で”向き合うのだ。また、他者と一緒にグループでかかわり合うことは、「わたし」が物語を編み直す長い道のりを歩む上で、もう一つの希望をもたらしてくれるという。

 

「『薬を辞めたいけど飲みたい』『子どもを叱りたくはないけど、わがままを言われると私も辛い』……生きていると、理想と現実のギャップに苦しめられることは誰だってありますよね。私たちはそれを『おあずけ状態』と呼んでいます。

おあずけ状態になったときはどうするか。ひとつは理想を諦める、もう一つは現実を追いつかせようと頑張る。この2つの選択はいずれも、再び依存症に陥ってしまうリスクをはらんでいます。

では、どうすればいいのか。理想と現実のギャップをそのままにして、仲間と言葉で埋めるんです。言い換えれば、『愚痴を言う』ということなんですけど、ギャップを無理矢理に埋めようとして思い通りにならない自分や相手を理想に近づけようとしないことが重要なんです。

現実は理想通りにいかないけれど、仲間と言葉でシェアして、『そんなこともあるよね』と、どうにかやり過ごしていく。そうした時間を重ねるなかで、次第に回復の糸口が見えてくる。だからこれは、妥協ではなく研ぎ澄まされた正解なんだと思います」

仲間と愚痴を言うということは、決して逃げや妥協ではない。それぞれに痛み傷ついてきた「わたしたち」が、からだを休め、歩んできた道のりを確かめ、そして再びそれぞれの物語を編み直していく……その長い旅路における踊り場やベースキャンプのようなものなのかもしれない。

回復とは、回復し続けることー変わりながら続いていく「わたし」の物語

脳性麻痺のある自分の身体と共に、有限性を前提にした「わたし」の物語を紡いできた半生。そして、仲間と分かちあいながら回復を目指していく「当事者研究」への関わり。最後に、今あらためて熊谷さんが「わたし」と「回復」というテーマをどのように捉えているかを伺った。

「『わたし』を成り立たせる要素を身体と歴史に分けて、それぞれが有限であるという前提を認めた生き方が、回復を考える上で重要だという話をしてきました。しかし、私たちは老いて変化していきます。私が32歳で慢性疼痛を経験したこともある意味老いだった。身体にしても歴史にしても、どんどん変わっていくんですよね。等身大で有限な身体と歴史に基づいたライフスタイルを確立しようと思っても、それ自体が決して、安定しないものなんです」

 

わたしたちは、老いていく。「いま」この時点での、有限な経験(歴史)や自分の身体機能を前提にして生活を設計してみても、その前提自体が不安定にどんどん変化していってしまう。

何一つ永遠に安定しているものなどないなかで、それでも「わたし」がわたしであるという物語をかたちづくることはできるのだろうか。熊谷さんは、変わり続けることこそがわたしの物語なのだと語る。

「薬物依存症当事者の集まりであるダルクの先輩方から教わった言葉で、『回復とは、回復し続けること』という言葉があります。『回復』というと、何か一つのゴールがあって、そこに到達することが回復であるとイメージしがちですが、そうではなくて、少しずつ回復していくプロセス自体が回復なんだと、そういう考え方をされているんですね。

これは、薬物依存症当事者の話に限りません。私たちの身体はどんどん変化していきますし、歴史も展開していきます。私もそういう意味では、私自身の物語を必死に改訂し続けているんです。もう、13版くらいになりましたかね。『熊谷全集』は第13版くらいですね。過去起こった出来事自体は変わらないんですけど、物語のプロットは変わっていくことがある。過去のことを何度も振り返りながら物語を書き直していく。それをこれからもずっと繰り返していくんだと思います」

「回復」とは、回復し続けること。「わたし」の身体と歴史は、今までも、そしてこれからも変わり続けていく。

「わたし」がわたし自身として「回復」していく物語ーそれは、正解のルートが分からないなか、時に迷ったり後戻りしたりして、空白の地図に少しずつ少しずつ書き込みを加えながら歩いていく旅路なのかもしれない。

何かたった一つのわかりやすい答えやゴールがあるわけではない。これをやればOKというハウツーがあるわけでもない。誰かに旅を代わってもらうこともできない。

それでも、「わたしたち」はひとりきりではない。「そういうこと、あるある」「あぁ、そんな意味だったのか」「私の場合はこうだな」と、時に集まり、お互いの経験を言葉で分かち合って答え合わせをしてみる。

それで決してすべてが解決するわけではないけれど、「あなた」と話すだけで、また明日も生きていこうというエネルギーが湧いてくる。きっとその繰り返しで、それぞれにとっての「わたし」の物語は続いていくのだろう。

熊谷晋一郎さんの『熊谷全集』は第13版ぐらいらしい。私はいま何版だろうか。あなたはどうだろう。次に出会う時にはどう変わっているだろうか。

またお話する日を楽しみに。それまでは、お互いの物語を。

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本記事は、筆者が2017年に熊谷晋一郎さんに実施したインタビューをもとにした記事を、本ブログに再録したものである。