よそよそしさについて

突然だが、僕は初対面同士の人間の間に醸し出される、あのよそよそしい感じが苦手だ。
相手がよそよそしい空気を出してくるとそわそわして落ちつなかいし、たがいに後出しジャンケンしたがるような探り合いの時間も好きじゃない。よそよそしい雰囲気を感じると、笑顔と適当な話題で自分から積極的にブレイクしに行くよう心がけている。というか、自然にそうしてしまう。

「装う」というテーマで文章を書く時に最初に思い浮かんだのは、「よそよそしい」という言葉だった。

「よそよそしい」とは、たがいに心を開かず、装い合っている様から来ているのではないか。ついインターネットでググりそうになる前に、勝手な妄想を膨らませてみる。

誰だって、自分を装わないで済むならそれが一番だろう。しかし、文明社会で生きる現代人が裸で外を歩くのが難しいように、未知の存在である他者に対して、自分を装わずにさらけ出すことは、それなりのリスクも孕んでいる。誰かを傷つけたり、傷つけられたりすることを、みんな心のどこかでは恐れている。少なくとも僕はそうだ。ハリネズミのジレンマのように、身を寄せ合って温め合うことを求めながら、完全には近づくことができない、人間とはそういう業を背負った存在なのかもしれない。

個々のコミュニケーションスキルしか依拠するものがない状況では、慣れない相手、慣れない空間で過ごす時間がよそよそしいものになってしまうのは、ある程度しょうがない。日本社会において、まだ親しくない間柄では、装うことがコミュニケーションの作法として内面化されている部分もある気がする。

しかし、ここで一つ問うてみたい。

僕たちが装う対象は、はたして自分の外にいる他者だけなのだろうか?

自分を取り巻く身近な他者の視線、あるいは長い時間をかけて刷り込まれた社会や世間の常識や価値観、それらが僕たちの思考や感覚に与える影響を完全に切り離すことは難しい。
自分の内と外のバランスを取ることを求められ、習慣化してきた僕たちは、ときに自分自身の本音や心の声を装い、そのことに気がつかないふりをしてしまっていることはないだろうか?

裸の王様は、立派な装いで注目を集めていると思っている自分が、まさか裸だということに気づかない。
同様に、「自分のことは自分が一番わかっている」と得意気な顔をしている人が、実はがちがちに服を着込んで、自分の裸の姿が全く見えていない、ということは往々にしてあるように思う。
筋トレで鍛えた自慢の腹筋や、こんがり焼けた肌をビーチで見せびらかしているつもりでも、まわりの人たちは「え、あの人なんで真夏に長袖、長ズボンで歩いてるの??」と不思議に思っているかもしれない。なかなか滑稽だし、考えようによってはホラーにもなり得る話だ。
自分が、自身を含むあらゆるものに対して装っているかもしれない、という可能性にできる限り自覚的でありたい。

ここまで書き終えてみて、ようやくGoogleで「よそよそしい 」という単語を検索してみる。goo辞書によると、

「よそよそしい(余所余所しい)」
1 隔てがましく冷淡である。親しみがない。他人行儀である。
2 無関係である。

違った。「装う」全然関係ない。
どうやら漢字表記だと「余所余所しい」と書くらしい。
「よそよそしい」が「装う」から来ているのではないか、という仮説はものの見事に外れたが、たがいを隔てるという意味では当たらずとも遠からず・・・?

「男と女は誤解し合って愛し合い、理解し合って別れる」という格言もあることだし、結果的に「装う」ということについて、自分なりに思考を深める機会になったので、結果オーライとされたし。

おしまい。