今日は閒での添削会だった。添削会とは閒メンバーの有志で立ち上げた文芸部での活動のひとつで、期日までに原稿を持ち寄ってそれぞれの原稿に事前に目を通し、あるときはコメントを入れ、会の日にそのメンバーとZoomを繋いでそれぞれの表現物(エッセイ、日記、小説、短歌etc…)に対して互いにコメントしあう会だ。私は今回が初めての参加だった。
私は今回自分にとってかなり切実な問題である「身近な他者の死」について書いたエッセイを提出した。祖母の老いと近づく死の足音を最近目の当たりにして、自分なりに祖母が死に至るまでに心の準備をしなければならないと思い、可能な限り精一杯書いた。
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添削会ではまずKさんの短歌の感想を参加者で話し合った。この表現のここに惹かれる、なぜこういう表現をしたのか気になる、など様々な意見が出て、開始早々面白い。Kさんがお休みだったので、作者に問うということができなかったのが非常に残念だったが、またKさんの短歌を読みたいと思った。
次はMさんのエッセイを扱ったのだが、私にはこのエッセイがかなりクリーンヒットで、自分の人生に重ねて読むことができた。Mさんのエッセイは自分の住んでいる土地に根を張って生きるということを主題にしていたのだが、Mさんははじめその土地に根付いて生きていくことができなかったそうだ。そこから始まり、徐々に根を張って生きることができるようになる過程を、畑に植わったオクラの苗に例えていたのが絶妙な表現方法だなと思えた。そして何より、ほぼ引きこもりで子なし専業主婦の私が「何か新しいことを始めたい」と思えるような、自分の人生にひとひらの風を吹き込んでもらえるような文章だった。彼女にしか書けないものだなと思ったし、それはとても尊いことだと思う。
順番は流れていき、私の講評の時間になった。みなさん優しくあたたかいフィードバックをくださるのだが、一番うれしかった感想は「原稿を読んでいて、自分のことが書いてあるような気持ちになりました」というものだった(完全に正確な表現ではないかもしれないです。間違っていたらすみません)。他にも、「今までさとみんが書いた中で一番いい」とか、「さとみさんはもっともっと書いてほしい。書くことで見える世界が変わってくることもあると思う」という感想もいただき、書いてみてよかったと思ったし、また書きたいという気持ちを強く持った。
最後にSさんの文章を読んだのだが、文体というか文章のリズムがとても小気味よい。そして内容もこの人にしか書けない、という面白さがあって、先程のMさんと同じように「これはこの人にしか書けない文章だ」ということを強く思った。誰の文章も、固有のクセやアクがあるような気がしていて、その人の人となりをある一面として表しているのがまさに「表現だ」と思える文章だった。
その後流れでユングの読書会をやろうという話になり、話はトントンと進み、明日の朝8時半から第一回目の読書会だ。(今は前日の深夜だが、起きられるのだろうか……)。
兎にも角にも、仲間たちと表現したものをシェアして褒めあったり気になるポイントを指摘しあったりするのはすごく心の健康にいいということがわかったし、単純に自己肯定感も上がるし、次回も是非原稿を提出できればなと思う。
全く話題が変わるが、私は他者の言動をやたらと気にしすぎる傾向にあるのだが、もっと揺らがない自分への自信や、自分の芯となる部分を少しずつ育てていきたいと今日ふと思ったし、それは「書くこと」を続けていくことで得られるものなのかもしれないなとも同時に思った。直感は意外と当たるもののような気がするし、書けるときに書く、ということをこれからも続けていきたい。何にせよ今日の添削会で、とても元気をもらった。みなさんありがとうございました。