夫が死ぬのが怖い。
隣で微動だにせず寝ている夫が呼吸をしているか否かをじっと見つめて、肺のあたりがほんのわずかに上下していることを確認して、少しホッとする。
馬鹿みたいだと思われるかもしれないが、私は結婚した当初から、この人が死んでしまったらどうしよう、ということを何十回も考えてきた。夫が外出するときにはそれはもう心の底から「気をつけてね」と声掛けをする。「気をつけてね」と声掛けされた人の方が事故に遭いにくいという本当かウソかわからない迷信めいたものを信じているからだ。何故そんなに夫の死が怖いのか。それは単純に夫が死んでしまったら私の生活が立ち行かなくなるという現実的な問題からでもあるが、そうでなく、もっと精神的な問題として、夫に依存している部分が大きいからだろうと思う。
それだけではない。漠然とした「死」という得体のしれないものに対して「怖い」という意識が刷り込まれているからでもある。
他者の死が怖い、このテーマが何故私にとってひりひりするような熱量のある問題なのか。
幼い頃に両親が離婚し、私は父子家庭で育った。しかし父は仕事で忙しく、私を養育していたのは実質的には父方の祖父母で、その祖父母が私にとっては実父実母のような存在だった。祖父母には厳しく躾けられたし、同時に愛情もたっぷりもらった。家に帰ると祖父母がいつもいるので、寂しくなかった。私のことを彼らなりに愛してくれたように、私もおじいちゃん・おばあちゃんを愛していた。自分の家が「周りの友だちのようにお母さんがいない」ということに気がつくのに随分時間がかかった。だが基本的にとても可愛がられて育った私にとって、そんなことはあまり問題にはならなかった。そういう意味で、「盆・正月に実家に挨拶に行くだけの祖父母」という形での関係性とは全く異なった関係性を、祖父母とは築いてきた。
父のような存在だった祖父は、末期の胃がんで亡くなった。余命宣告されてから1年足らずで、あの世へ行ってしまった。中学3年生の私は、自宅で闘病して徐々に衰弱して骨と皮だけになっていく祖父を「見る」ことができなかった。吐血してやせ衰え、最後には氷しか舐められなくなった祖父を直視するには、私の感受性はあまりに脆く、弱かった。私にとって病・老い・死というのは自分の原体験になるようなある種トラウマティックな出来事だったのだ。
ついこの前、東京の祖母の家に行った。祖母はもうその家を引き払っていて、リハビリの施設に入居していることがわかった。何度も入退院を繰り返し、大腿骨まで骨折していて、その施設に入所しているとのことだった。このことを伯母から電話づてで聞かされたとき、祖母が確かに「老い」そして「死」へと向かっていることが感じられた。私はその情報を聞いて、祖母との思い出が詰まった駅前のパン屋でぼろぼろ泣いた。その後落ち着いてこの問題について考えられるようになったとき、祖母が御棺の中に入っている姿を想像した。想像の中で私は、御棺の中を見ることができなかった。おそらく現実に祖母が亡くなっても、御棺の中を見ることはできないのではないかと思う。お骨を拾うことすらできないかもしれない。それほど、自分にとって想像上の祖母の死は怖ろしく、受け入れがたいものだ。
この私の「他者(大切な周りの人達)の死」が怖いという感覚は普遍的なものだと信じていたのだが、この間、閒の友人と話していたら「他者の死は(一概には)怖くはないですね」と言われて私は結構驚いてしまった。そして同時に、自分の死についてはそんなに考えを巡らせていないし、怖れもないということがわかった。
では何故、私は他者の死をこんなにも怖れているのだろうか。もう二度とコミュニケーションできなくなるということが怖いのだろうか。存在が灰に帰すということが怖いのだろうか。漠然とした概念としての「死」が怖いのだろうか。その「死」へとゆるやかに繋がる「老い」が怖いのだろうか。私は一体何に怯えているのだろうか。
自分の中に錨をゆっくり降ろして考えてみると、やはり祖父の死というトラウマティックな体験が大きく関わっているように思われた。末期がんで自宅闘病していた祖父を思春期の多感な時期に「直視」できなかったこと、優しい言葉一つかけてあげられなかったことへの後悔は自分の中の負い目でもあるし、そのトラウマから「身近な人の死は怖い」と脳内で自動変換されてしまうのかもしれない。
祖父の死への後悔は確かに感じていたので、祖母には「いつお別れがきてもいいように」と思って準備できることはしてきたつもりである。それでもなお、私にとって祖母の病・老い・そしていずれ来る死は怖ろしいものだ。
夫は今度大腸カメラの検査を受けることになっている。過敏性腸症候群の疑いありと診断されていたが、セカンドオピニオンを受けて、一度検査しておいた方がいいだろうという話になった。私がその話を聞いたときに瞬間的に思ったのは「重篤な疾患が見つかったらどうしよう」ということだった。自分の病には何とか折り合いをつけていっているはずなのに、いつだって身近な他者の病とそれに紐づく影のような「死」というものが、私には怖い。
だからこそ、日々一瞬一瞬を当たり前のものとせず、大切に生きていけるという側面はある。けれど、私はやっぱり怖い。大切な誰かが病い、いつかは死んでしまうということが。