発作と共に生きる

私は発作と共に生きている。外を出て道端を歩いていると、急に気分が悪くなり、酷くえずく。

急に気分が悪くなってくると自分の全神経が「気持ち悪い」という感覚に浸され、何度もえずく。えずいているときには、何度この波がやってくるのだろうと軽くパニックになる。頓服とペットボトルのお茶を急いでポケットと鞄から出す。液状の頓服を飲んで、そのときに私は肉体的苦しみから自然に頬に涙がつたっているのを感じる。ああ、まただ。また発作が出た。でも大丈夫。もう慣れているから。そう思って、ずっと病気と折り合いをつけてきた生きてきたつもりだった。


だが、私はとうとう道端で吐いてしまった。正確に言うと吐いてはいないのだが、口の中まで胃の内容物が戻ってきて、それを口から出したら吐いたことになるのがいやで、苦しい苦しいと思いながら、それをぐっと飲みこんだ。


私はこんな体質なものだから、基本的に積極的な外出や、特に一人での外出はできない。美容院に行くのも、当日体調が整っていて大丈夫そうだと思うときにホットペッパービューティーで空きコマを探して予約する。そして歩いていると発作が出やすいので、大体タクシーで近場まででも移動する。お金も、手間もかかる。美容院に行っても緊張の連続だ。正確な診断名がついていない病気なので、ひとまず受付の人に「私はパニック障害というのを持ってまして……お薬とお茶を持っていてもいいですか?」と必ず尋ねる。美容院で施術を受けているときも、シャンプー台が特に恐怖だ。シャンプー台で発作が出たらどうしよう、という恐怖とともにいつもシャンプー台まで移動する。もちろん、ペットボトルのお茶を手に携えて。


美容院の例に限らず、あらゆる場所で私は「発作」を怖れている。調子が悪いときは、自宅にいるときも発作が出る。生きていると発作が出る。なぜだかはわからない。根本的な治療法もない。

私は今日吐いてしまって、物凄くショックな気分になった。発作と共に生きてきたから、こんなの当たり前、よくあることじゃない、次いこ次、と軽やかに自分を宥めることができなかった。なんで自分は自由に外出ができないんだ。外出ができないだけならまだしも、なんでこんな瞬間的に辛い思いを外出のたび、家でまでしなければいけないんだ。悔しい。辛い。胸が痛い。

張り裂けそうな気持ちを抱えながら、この文章を書いている。

けれど、私に「書く」という行為が残されていてよかったと思っている。私はこの文章を書きながら、少しずつ癒されている。私はこんなに辛かったのか、苦しかったのか、我慢していたのか、悔しかったのか、そういうことを可視化させてくれて、自分の中で咀嚼することができて、私は今、ただ中で少しずつ癒されている。

我ながら読み返すと滅茶苦茶な文章だ。話の綺麗な終わらせ方もわからない。けれど、私は辛いし、これからもこの症状が緩和されるまできっとずっと辛いだろう。

先日友人とこんな話をした。「あなたにはあなたの孤独と絶望がある。私には私の孤独と絶望がある。そこに優劣はない」。「その通り」とその友人は言ってくれた。私だけが辛いわけではない。歪さを抱えながら、それでも、今日も、生きる。