2021年5月29日に、熊谷晋一郎『当事者研究』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
この本の骨組みは以下の通りである。まず、当事者運動や依存症自助グループとの対比で、当事者研究なるものがどう新しいのかが示される。次に、その「新しさ」をうまく享受しそうな事例として自閉スペクトラムが挙げられ、(1)なぜ自閉スペクトラムについて当事者研究の「新しさ」が活躍するのか、および(2)実際にどういう当事者研究がなされてどんな知見・仮説が得られたかが説明される。
これだけを聞くと、既にあちこちで出ている当事者研究関連文献(たとえば、自閉スペクトラム者の当事者研究ということであれば、まさに本書で登場する綾屋と熊谷のものが2008年に書籍化されている)と、どう違うのかが一見してわかりにくい。当事者研究についてのあまたの「先行研究」の中で、この本はどういう立ち位置にあるだろうか。
私は、この本を、「当事者研究にアカデミシャンが一枚噛むことの意義って、要するにこういうことでしたよね」という確認作業をするものとして読んだ。より具体的には、当事者研究に対する懐疑的な見方が大きく分けて二つあるところに、それぞれに対して応答するというのが、この本の事実上のテーマなのではないかと私は考えている。この論点は読書会でも中心を占めたので、やや丁寧に(私のまとめという形で)紹介したい。
当事者研究に対する懐疑的な見方には、大きく分けて二つのものがあるように思われる。二つとは、大雑把に言えば、「それって学問なんですか?」と「それって当事者にとって有益なんですか?」だ。
前者から始めよう。当事者研究は、何らかの障害や疾患の「当事者」が主体となって各々の身体的・精神的状況(と外界・他者との相互作用)を研究するものだとされる。このとき、当事者が語ったことの整理と体系化を基本とする当事者研究のやりかたは、たとえばラボで厳密に量的データを追っている人には疑わしく見えるかもしれない。その中には、「数字が出てこないから研究に値しない」などという素朴なものだけでなく、より真面目に当事者研究の方法論を問うものがあるだろう。これが、当事者研究に対する懐疑の一つだ。
これに対する熊谷の答え(だと私が理解したもの)は、次の通りだ。仮に、我々は自閉スペクトラム者がどのような状況でどのような不利益を被るかを研究しているとしよう。もし、この研究をする上で何を測ったらよいかが既にわかっていたならば、様々な条件を変えてそれを測ることが研究課題になっただろう。しかし、(少なくとも当事者研究がなければ)まさに何を測ったらよいかがわかっていない。こういうときに必要なのは、何を測るべきなのかを知るための研究だ。極めて大雑把に言えば、当事者研究は「何を測ればいいのか」を知るための研究として理解できる。
もう少し正確に、「何を測ればいいのか」についての特定の結論ではなく仮説を得るための営みだと言ったほうが、当事者研究の実態に則しているかもしれない(本書の中で、熊谷自身もそういう表現をよく使う)。そして、この仮説の検証に際して、誰もがよく知る意味での「科学」、つまりプロのアカデミシャンの役目が本格的に出てくるというわけだ。
では、「何を測ったらよいかすらわからない」という問題が自閉スペクトラムについてとくに生じるのは、なぜだろうか。その原因について、本書では、自閉スペクトラムという身体的・精神的特徴自体の性質とそれに起因する社会的条件の両面からの示唆がある。まず、自閉スペクトラムというのがそもそもどういう特徴であり、それに関連した不利益はどうやって解消・回避可能なのかが、(たとえば典型的な身体障害とは違って)本人にも周囲の人々にもわかりにくい。これに起因して、「社会をこう変えるべきだ」という具体的要求を掲げる運動を自閉スペクトラム者は組織しにくい。こういう理由で、他の障害をもつ人々に比べると、自閉スペクトラム者がどういう不利益を被っているのかは、当事者にも非当事者にもわからなかったというわけだ。
(本書に即していえば、この「どんな不利益なのかがよく知られていない」という場合にも使える点が、当事者運動と対比した当事者研究の強みだとされる。これを受けて、「では自閉スペクトラム者に語ってもらおう」という考えに誰もが至るだろう。しかし、どんな当事者でも安心して語れるためには整えなければならない条件がある。たとえば、当事者の生活基盤の保証や、語る内容によって社会生活が脅かされないという保証が、こうした条件にあたる。こうした「語れる環境の条件」にかかわる論点が、依存症自助グループと対比した当事者研究の強みとして本書で示される。やや大雑把な整理ではあるが、この整理により、当事者研究の強みについての見通しがさらによくなると私は考える。)
当事者研究に対する問題提起には、これまで見てきたのとは真逆の、いわば当事者サイドからのものがある。「それって当事者にとって有益なんですか?」、もう少し正確に言えば「それってすべての当事者にとって有益なんですか?」というものだ。
この形の疑念は、さらにいくつかの形に分けることができる。本書では、それほど明示的に場合分けがなされているわけではないが、実質的には下のような応答がなされているように思われる。なお、以下の場合分けは必ずしも相互排他的でも網羅的でもない。
まず、当事者研究をやるまでもなく身体的・精神的特徴がよくわかっている(それゆえあとは声を上げて社会改革を目指せばよいような)身体的・精神的特徴をもつ人々に対しては、次のように応答できる。当事者研究は、決して障害者運動や依存症自助グループを代替するものでも、そうした営みの上位互換でもない。既にみたように、当事者研究の強みは「それがどんな不利益かがよくわからない(ので、研究しようにも測るべきものがわからない)」という身体的・精神的特徴においてこそ発揮される。不利益とその解消方法がよくわかっている身体的・精神的特徴については、当事者研究はあまり魅力的ではないかもしれない。そのことを否定する理由はない。
第二に、これまでの当事者研究がカバーしてこなかった身体的・精神的特徴をもつ人々に対しては、簡単にいえば「ではその身体的・精神的特徴について(もし有益ならば)当事者研究をしよう」と言うことができる。たしかに、歴史的経緯から、当事者研究の主題としてとくに盛んなのは精神障害と依存症と自閉スペクトラムだ。しかし、近年では、吃音など別の身体的・精神的特徴についての当事者研究もおこなわれつつある。当事者研究は、成り立ちからして、目立った運動では代表されにくい「マイノリティ内のマイノリティ」の経験を描くことを得意とするように思われる。もちろん、身体的・精神的特徴の種類によっては、当事者の人数が少なすぎて当事者研究のイベントを開催しにくいというプラクティカルな問題に直面するかもしれないが。
第三に、当事者研究では原理的にカバーできない身体的・精神的特徴があるのではないかという疑念をもつ人がいるかもしれない。たとえば、典型的な当事者研究では、自分の経験を他の参加者にわかるように言語化することが求められる。それゆえ、そうした言語化作業が不得意な人々の当事者研究は、単にこれまでやられてこなかったというだけではなく、原理的にやりにくいのではないか?
この疑念に対する本書での応答は次の通りだ。一例として、自閉スペクトラムに伴う経験については、これまでの当事者研究から様々な仮説が立てられているので、そうした仮説に含まれる経験を再現できる技術が開発されている。この再現技術を用いて「どれが普段の経験に近いか」を問うことで、自分で経験をゼロから言語化する場合に比べて低いコストで当事者研究に参加する(自分の経験をデータとして付け加える)ことができる。高度な言語運用能力がなければ当事者研究に参加できないわけではない。
最後に、当事者研究がもつ「研究」の側面がまさに不利益になる人々がいるのではないかという疑念がある。たとえば、当事者研究への参加者は、基本的には、自分の経験と整合することを言う必要があるとされる。本人の経験に則さない一般的な語りは、どんなに内的に一貫していても、経験との整合性という規準(真理条件)に違反するという理由で、信頼できるデータのプールから取り除かれる。しかし、状況や内容によっては、自分の「ナマの経験」を語ることはそれ自体で苦痛を伴うものであり、一般的で抽象的なことを語るほうが苦痛が小さいことがある。そこまでして「ナマの経験」の語りを求める当事者研究は、当事者にとって酷なのではないか?
この点は熊谷も認めており、本書でも、研究上有益だからといって本人に苦痛を強いることは避けるべきだと明示的に述べられている(たとえば163ページ)。もちろん、語りたいことだけ語っていても信頼できるデータにならないことは容易に想像できるため、本人の苦しみと表裏一体の語りをどこまで出すべきかは、当事者研究の具体的な方法の問題として間違いなく重要だ。ただし、これは当事者研究が原理的にどうかという問題ではなく、その次の、当事者研究をどのようにおこなうのがよいかという問題だろう。
以上、本書の内容を、当事者研究に対する二方向からの問題提起(とそれへの応答)を軸として再構築した。この再構築は、熊谷の意図とは必ずしも一致しないかもしれない。しかし、二方向からの問題提起を補助線とすることで、本書がおこなっていることの全体像および個々の論点がよりクリアになるのではないかと私は考える。
なお、この記事では表立って触れなかったが、本書(および熊谷や綾屋の他の研究)に頻出する重要な論点として、自閉スペクトラムを障害の社会モデルのもとで再理解するというものがある。障害の社会モデルとは、標準的な理解では、「障害(disability)というのは、特定の身体的・精神的特徴のことではなく、それをもつ人と他者・環境との間で生じる不利益なミスマッチのことである」という考え方だ(そうしたミスマッチを生じさせる他者・環境そのものを障害と呼ぶ場合もある)。これは、歴史的には身体障害を例として主張されてきたものだが、同じことは自閉スペクトラムにも言えるというのがここでの論点だ。自閉スペクトラムは俗に「対人コミュニケーションがうまくできない障害」などと言われる。しかし、もし障害の社会モデルに説得力があるなら、対人コミュニケーションでミスマッチが生じたとき、「対人コミュニケーション上のミスマッチ」自体をコミュニケーション参加者のうち片方の身体的・精神的特徴とみなすことは根拠を欠くだろう。
それでは、自閉スペクトラム者に特有の身体的・精神的特徴とはいったい何なのか——これを知るための仮説生成と検証のプロセスこそが、上で見た当事者研究(+それをもとにした科学研究)だというわけだ。