本当は何が欲望されているのか?「障害者手帳と割引」を再考する

 2023年1月10日(火)にTwitterで投稿されたこのツイートを巡って、厚労省が個別の見解を示すなど、波紋を呼んでいる“という”。

ここで私が、“という”を皮肉気味に強調するのは二点の理由からである。第一に、それはせいぜい障害福祉関係の問題に関心があったりSNS上の炎上案件に目が向いたりする特殊な人―かくいう私もその一人―の射程に留まる程度の波紋に過ぎないからだ。第二に、仮に事実として一定程度の波紋を呼んでいるにしても、その波紋の内実からして、本来は静観し、やがて忘れていくくらいが妥当であるように思うからだ。
私が強調したいのは、特に第二の理由だ。すなわち、私の思うところでは、世の中には議論しても意味がない問題がある。いや、議論しない方が良い問題というものが、対話や論争好きの今日的要請に対立する仕方で、存在しているとさえ言えるかもしれない。

しかしこのように言うと、こうして私が再びこのツイートに言及してしまうこと自体、自己矛盾的だというそしりを免れないであろう。そして実際、そのそしりはほとんど正しい。ただ、一抹の隙があるとすれば、<波紋の内実からして、議論しない方が良い問題>とはどのようなものか、あるいはなぜ議論しない方が良いのか、を語るために、やむを得ず具体的な問題からはじめるしかない、という制約を私が意識的に背負うと自ら言ってしまう場合であろう。

私からすれば望ましくないこととはいえ、現にかのツイートはなされたし、厚労省は見解を示してしまったし、一定数の人がもうその問題と接触してしまった。この現実からスタートすることしかできないが、この現実が展開していくプロセスは一つではないはずだ。

つまり、かのツイートがなされたからといって、厚労省が見解を出したことは必然ではないし、その見解に対する更なる反応も必然ではないし、これから先どのように制度が捉え直されるにしても、その現実一つだけが正当化されるわけでもない。いつも、いつまでもはじまりからはじめよう。

まずは、このツイートのアカウントに紐づけられた背景を確認してみよう。はじまりがすでに誤っているから、ややうんざりするが……。

事柄の確認

 かのアカウント「レンタル障がい者を依頼する際に知ってるとよいこと」というnoteを紐づけて、少なくとも「べつに知ってなくてもいいけど、知ってるとスムーズかもね」という外見上かなりへりくだった仕方で、ツイート内容にちなんだ共有したい事柄を提示してくれている。この内容から外れたいかなる議論も無駄である。議論すべきことがあるとすれば、まずはその内容の中に隠されたことや見落とされたことであろう。

 特に確認すべきなのは、かのアカウントの障害の種類ないし内容と、「レンタル障がい者」の要項である。そもそも、本件が波紋を呼んでいるとすれば、その核心に置かれるべきは「障害者手帳と割引との関係」への問いであり、とすると障害者手帳における障害の内容や程度に触れざるを得ない。そして、「レンタル障がい者」とは「割引」を受けることの商品化(?)と理解されて問題視されたのであり、その要項には商品化の仕組みないし意図が示されている、と考えなければならない。以下、順に見ていく。

・診断された障害の種類
発達や精神に障がいがある。
双極性障害II型(躁うつ)
注意欠陥多動性障害(ADHD)
アスペルガー症候群(ASD)で、他にも隠したいものも含めて合併症がいくつかあります。
すべて主治医に正式に診断されたものです。

こうした記述から見出されるのは、少なくともかのアカウントがいわゆる「精神障害」を抱え、「隠したいものも含めて合併症がいくつか」あるということ、そして「正式に診断されたもの」というある種の権威性を補足していることである。

したがって、かのアカウントが「障害者手帳」の何級に当たるものなのかは分からないが、少なくとも「精神障害者保健福祉手帳」を支給されていることを疑う必要はなさそうだ。ここで確認しておきたいのは、「障害者手帳」と呼ばれるものには「身体障害者手帳」「精神障害者保健福祉手帳」「療育手帳(自治体によって呼称が異なる場合があるが、知的障害者を対象とした手帳のこと)」の3種類があり、その各々に重度を表す級数ないし記号があるということである。というのも、この手帳の種類や級数ないし記号によって、「割引」の対象は実にさまざまであるからだ。一例を取り上げるならば、「身体障害者手帳」には「旅客鉄道会社旅客運賃減額 第1 or 2種」の項目があり、公共交通機関でほぼ共通の割引制度が記されているが、この割引制度は少なくともJRの場合「精神障害者保健福祉手帳」には採用されていない。

・依頼について
映画館や美術館だけではなく、「ランチしながらおしゃべりしたい」「ただいっしょに散歩したい」依頼もOKです。手帳の利用はなくてもいい。
ぼくが行きたくないところへの同行は、依頼の時点で断ります。
※(筆者注)note内では更に「リマインドを利用者が行う」「交通費・飲食費を利用者が負担する」「道の案内を利用者が行う」「コミュニケーション上の注意」等の条件が付随

 ここで重要なのは、「手帳の利用はなくてもいい」という部分である。すなわち、「レンタル障がい者」は「割引」と必ずしも結び付けることを意図されていない。実際、依頼の要件として繰り返されるのは、かのアカウントすなわち「ぼく」が利用者に要求する配慮の数々であり、「ぼく」と利用者において利益が大きいのはほとんど一方的に「ぼく」である。

したがって、「割引」は「レンタル障がい者」を利用する際のインセンティブになり得ないし、「ひまな障害者が必要なシーン」など存在しないという悲しい現実(?)を本当は「ぼく」自身よく理解しているはずだ。それでは「割引」という金銭的利益が役立たないとすれば、「ぼく」は何を目指して「レンタル障がい者」を商品化(?)しようとしているのか。この目指している何かに対する問いがはじまりから決定的に欠けているからこそ波紋そのものが起こり、また論点の混乱が引き起こされていると思われる。

賛否の基本的方向性

 「レンタル障がい者」に対する否定的見解は、容易に想像がつくであろう。第一に、障害者手帳を何らかの自己の利益(金銭的利益以外だとしても)に役立てることは、税金を納めている大多数の健常者にとって、少なくとも好ましくないという見解。第二に、そもそも障害者手帳の法的制約に反しているという見解。メディアからの問い合わせに応じた厚労省の見解は、こうした二つの見解を微妙に混合したものとして象徴的であろう。

厚労省の精神・障害保健課は1月11日、J-CASTニュースの取材に対し、次のように答えた。
「障害者手帳(筆者注:精神障害者保健福祉手帳を指すものと思われる)は、精神疾患を持っている人に付与し、各方面からの援助を受けて、この方が社会復帰をしたり自立できるようにしたりすることが目的です。介助者は、家族や友人、医療機関の人といった障害者に近しい人というのが大前提で、投稿のような手帳の使い方は、制度の趣旨に反していると認識しています」
一方で、誰が介助者に該当するのか、という定義については、次のような認識を示す。
「ただ、介助者の定義というものはなく、ダメだと言い切れないのが今の状況です。一概に制限をかけるのは難しいと考えています」
それでも、「こういったことが増えてくれば、手帳の使い方について検討しないといけない」と明かした。また、今回のようなケースが継続的、組織的に行われれば、警察が動いて何らかの罪の問われる可能性があるともした。
(https://www.j-cast.com/2023/01/11453977.html?p=all)

 この記事に示されている見解のうち、重要なのは3点である。①障害者手帳の目的は受給者本人の社会復帰および自立のみにあり、その目的に適う限りで援助を受けることが想定される。②介助者は当事者に「近しい人」に限定されるが、現状「近しい人」の定義はない。③状況次第では「近しい人」の定義を含めて障害者手帳の制度運用について再検討が行われ得る。したがって、「レンタル障がい者」が金銭的利益を意図するものでなく、かつ個人的な友人募集の手段に留まるとするならば、明確に違法であるとは言えないものの、「近しい人」の枠組みを拡げようとすること自体が障害者手帳の目的と齟齬をきたしうる、と考えられているようだ。

つまり、厚労省の見解においては、或る障害者にとっての「近しい人」はあらかじめ決まっていて変わらないはずであり、その固定性は介助行為を通した介助者と被介助者の一体性に基づく。そして、この一体性こそが「受給者本人の社会復帰および自立」という目的に適うのであり、割引はこの一体性を認めることに他ならない。故に、障害者手帳の目的においては割引と「近しい人」の限定が結びつかなければならないのだ。ただし、こうした厚労省のロジックは、もともと介助者と被介助者の一体性という怪しい概念に基づく。そもそも介助者と被介助者は一体になり得るだろうか。二人はそもそもズレを帯びているはずだし、そのズレは障害者と支援者一般の願いを打ち砕くように決して埋まり得ないものではないか。

 このズレをどれほど認識しているかは定かではないが、以上の厚労省見解に対して“識者”は不穏な匂いをかぎ取り、「レンタル障がい者」に対する肯定的見解を示している。

乙武
「何が叩かれているかというと、“僕と一緒に行くと割引になる”というお得感が、障害者手帳の悪用ではないかということ。確かに、倫理観的に疑問に思う部分がないわけではないが、そこも含めて許容してほしいと思っている。日本は先進国の中で珍しく分離教育があり、障害者と健常者が別々の環境で学んでいる。国が強制的に接する機会がないようにしておいて、“社会に出たら仲良くやってね”は無理がある。実はレンタル障害者は厚労省が見解を出すまでの事態になっていて、“障害者手帳というものは、そもそも介助者、家族や友人、医療関係者などに限定をしているので”と。友人をどうやって作るのか、自分が出会いを求めていこうと思っていても、“お前ら迷惑かけないように生きていけよ”みたいなことがヤフコメに書かれている中で、その見解自体ちょっと待ってくれと思う。健常者側はさして障害者との出会いを求めていないので、そのギャップを埋めるために“僕らといるとお得ですよ”というのはアリなのではないか」。

橋下
「介助者を限定してどうするのか。家族ばかりに負担させるところにも問題があるわけだから、そこをなるべく広げるために、むしろ積極的に活用していったらいい。インセンティブは世の中の政策に山ほどあって、補助金制度はだいたいそう。(レンタル障害者の仕組みも)共生社会を作るためのささやかながらのインセンティブじゃないか。これでみんなが“一緒にやろうか”と介助者になってくれれば、政策としては大成功。本来の趣旨ではないということだが、僕は障害者手帳を使うときに、どういう意図か、という内心を見にいくのは大反対だ」
(https://times.abema.tv/articles/-/10065540)

乙武氏と橋下氏の見解は、肯定的見解のうち、代表的な2つの方向性を示していると言えよう。まず乙武氏は、教育環境における障害者と健常者の分離を踏まえた上で、「レンタル障がい者」が「出会い」を求めるある種の社会運動であるとしている。

次に橋下氏は、例の「近しい人」の限定という問題から、介助を外部に開いていくことの重要性を確認した上で、制度の個別的な使用意図に公的な判断が下されること自体の法的問題をより重視している。

両者の見解はどちらも厚労省の見解に透けて見える、障害者の人間関係論の狭さを批判していることは確かであろうし、その限りで両者の見解は紛れもなく正しい。ただし、仔細に検討していくと、両者の見解はやや不十分と思われる。

 乙武氏の見解について考え直すべきは、障害者と健常者との間に横たわる「出会い」に対する要求のギャップを埋め合わせる原理としての「お得感」である。既に述べたように、件の「レンタル障がい者」のアカウントは、健常者にとっての「お得感」が実はほとんどないことをよく自覚しているし、実際ないのである。次の節で詳細を述べることになるが、障害者手帳に付随する「割引」は共通の基準があるわけでもなく、「お得感」は「お得」をなんら保証しない。

そもそも「出会い」という目に見えないものに対する要求を、「割引」という目に見えるもので埋め合わせすることには無理があろう。埋め合わせの手段を考える前に元の要求を叶える方法を考えるべきだし、やむを得ず埋め合わせの手段を考えるにしても、そこで埋め合わせられないものに対する理念的洞察が伴わないならば、目先の埋め合わせほど貧しいものはない。言うまでもなく、障害者と健常者との「出会い」それ自体をまず考えなければいけない。

 橋下氏の見解について考え直すべきは、「補助金制度」を埋め合わせやインセンティブの一因として捉える、乙武氏と共通の楽観的な立場の問題に加えて、障害者手帳の使用法についての問題が一足跳びに「内心」の問題に還元されていることである。

そもそも、制度を法律によって定めて実際に運用するということは、必ず適切なものと適切でないものを区別するということだ。当たり前だが、障害者手帳を誰に給付するか判断するということは、受給者として適切な者と適切でない者を区別することだし、人間を区別する基準はその人の障害によって何ができて何ができないかという事象や行動に対する区別や判断と結びついている。

そして、その区別の基準は公的機関という判断主体の「内心」に由来しているのだから、「内心」には触れるべきでないという主張は、「内心」に触れずにいられないそれ自体「内心」の産物である法律やその実践の現実的暴力性を隠蔽する恐れがある。
より踏み込んで言えば、本当に「介助者を限定する」ことの問題を乗り越えようとするためには、かのアカウントが求めている「出会い」の内実を知らなければならないし、誰と「出会い」たいのか、その「内心」が問題にならざるを得ない。

 かくして、「レンタル障がい者」の商品化(?)を問題にするということは、否定的立場であれ、肯定的立場であれ、究極的に人間関係論やそれに伴う感情という極めて厄介な問題を呼び込まなければならない運命にある。

この運命に向き合うことができないならば、「レンタル障がい者」を提案するべきでもないし、批判するべきでもないし、支持するべきでもない。すなわち、ただ黙って無関心でいること、現状に何の変化も加えないことの方が望ましい。不用意な参入は危険な道に進まない保障がなく、現に問題のツイートがなされる以前の世界は、多少不条理が隠れていたにせよ、なんとか成り立っていたのだから。

しかし、既にこのツイートはなされ、波紋を呼んで、ここまで記述されてしまった。この現実から我々はもう逃れることができない。とすれば、残されているのは、かのアカウントが求め続けている「出会い」を問い直すこと、すなわちはじまりからはじめることだけである。

そのためには、「出会い」の契機となり得る「割引」などというものがあるとすればそれはどのようなものなのか、そもそもなぜ「割引」を受けることが障害者の「出会い」の契機となり得るのか、考えていくしかないであろう。それはかなり遠回りだが、結局のところ障害者手帳の目的や“正しい”使用法、その価値などを捉え直すことになっていく。

障害者割引自体の多様性

 「出会い」は不十分であるかもしれないが、現に起こってきたし、「割引」には不適切なものもあるかもしれないが適切なものもある、この現状に対する両義的な認識からはじめてみよう。希望を見出せるとすれば、それは「レンタル障がい者」の商品化(?)という新しい問題を抽象的に問うことからではなく、実際の「割引」が各事業者に委ねられているという個別的で偶然的な現状を見直すことからはじめる場合である。

 私も既存の「障害者割引」の仕方を全て知っているわけではないし、その全てを網羅することを目指してもいないが、「レンタル障がい者」のアカウントが例として示している「美ら海水族館」のような割引の仕方を含めて、経験上いくつかの類型化を行うことはできる。

①障害者1名と介助者1~2名が無料
②障害者1名が値引き(介助者1名も値引きを受けられる場合が多い)
③割引なし(ただし、個別の代替案が伴う場合が多い)
※どの場合も手帳の種別や級数などを問わないのがほとんど

 ①の例としては、「美ら海水族館」や「東京都美術館」などがある。原則的に介助者は1名として想定されているものの、公立の美術館等でしばしば開催される障害者手帳保有者限定の少人数内覧会などでは、障害者を唯一の招待客としている都合、常時2名の介助を必要とする最重度の障害者も想定する場合があり、2名の介助者が認められることもある。

 ②の例としては、各種公共交通機関や映画館、テーマパークなどがある。これが最も多いと思われる対応だが、その割引率もかなり多様である。既に述べたJRの場合で言えば、障害者と介助者それぞれ1名が半額になることで、実質的に2人で1人分の料金となっている。その他、たとえばTOHOシネマズなど大手シネコンでは障害者と介助者それぞれ1名が共に一定の値引きを受けられたり、東京ディズニーリゾートでは同様の値引きに加えて、アトラクションの行列に並ばないで利用できるなど特別なサービスが受けられたりする。

ここで注意しておきたいのは、②のほとんどは介助者を伴わない場合にも適用されることに加え、一般に介助者の料金については、その介助者が公的サービスによって雇用されている場合、障害を持つ利用者が全額負担することになっている、ということだ。

つまり、障害者手帳で一律に値引きを行うと、事実上常に介助者を伴わなければならない重度の身体障害者の利益は、軽度の障害を持つ者の利益より相対的に小さくなるということだ。これは障害ごとの利害による分断に加えて、そもそも重度の身体障害者が外出する場合に健常者以上の時間的かつ金銭的負担があることをかえって浮き彫りにする。

 ③の例としてはホテルの宿泊やレストランでの食事、ライブやトークイベントなどがある。たとえばレストランでの食事は、介助者が就業上食事できない旨を伝えれば、注文を強制されることはないが、介助を必要とする重度の身体障害者は大人分の量を大幅に下回る食事量の場合がほとんどであり、障害者は一見相対的に小さな利益しか享受できない。

ただし、重度の身体障害者は食事自体に時間がかかることに加え、他の席を圧迫するほどのスペースを必要とする場合もあり、その中でお店ごとに制限時間をなくしてくれたり、メニューを調整してくれたり、とりわけ丁寧に接客をしてくれたりすることがある。その他、宿泊やイベント参加においても、あらかじめ状況を伝えておくことで、部屋や座席場所のグレードアップをしてくれることもある。そして、これらの配慮は現場判断に委ねられ、常に不平等で蓋然的なものに留まり続ける。

 これら3つの例を並べてみることで、それぞれの割引の背景に潜む障害者に対する考え方やまなざしのようなものが見えてくる。

①に特徴的なのは、障害の状況を問わず、障害者と「近しい人」に積極的に来場してほしいという社会的規範(?)を重視する傾向である。

それに対して②に特徴的なのは、①の社会的規範(?)と追求しなければならない企業側の利益との微妙な葛藤であり、そのとき重度の身体障害者についてはあまり厳密な想定をしない傾向である。

③は一見、企業側の利益のみを優先しているように見えて、実は割引では解決しない、埋め合わせ不可能な何かがあることを含みこんだ傾向である。では、結局のところこうした3つの立場をどのように考えれば、「レンタル障がい者」という一つの提案に込められた、「出会い」と「割引」の関係への問いを正しく受け止めることになるのだろうか。

障害者手帳と割引を再考する

 そもそも「出会い」の魅力とはなんだろうか、あるいは少なくとも私のような重度の身体障害者が「出会い」を求めるのはなぜか。下手な障害者差別の本を読めば、あるいは今この瞬間もそしてこれから先の未来も不当な抑圧を受けている障害者の話を聞けば、そして一歩外に踏み出してジロジロ見られたり逆に目を逸らされたりするだけで、多くの障害者は孤独を感じるだろうし、そのような孤独を放置する構造として世界を理解することができる。

そして、このはっきり言えば誤った世界とその理解は、「割引」や「値引き」でどうこうなるものではない。「割引」を支えている、障害者と介助者を一つの人格と見なそうとする努力は、現実にくたびれてしまった障害者にとって、障害者との「近しさ」を介助者に押し付けて囲い込もうとする悪しき陰謀にしか思えないからである。

だが、③のような、その場限りでなんの根拠も持続性もないサービスと出会えば、こうした閉じた世界とその理解はたやすく崩れていく。外出する機会自体少ないのなら、たまには奮発しよう。一杯3000円の超高級茶を飲むか、同じ値段のケーキセットにするか、いっそ昼からウイスキーを飲んでしまおうか、メニューを見た後、ホテルカフェのウエイターに尋ねてみるが良い。そうしたら、目を見て一つ一つ相談に乗ってくれるだろうし、たまには吸い飲みに規定量より多く注いでくれるのだ。そして、注いでくれるときには天気の話をしたり、読んでいる本の話をしたり、ガラスの吸い飲みがプラスチックの吸い飲みより優れている話をしたりするのだ。再訪してみたなら、より良い歓待があるかもしれない。

 ということは、「出会い」は金次第なのだろうか。もちろん、リーズナブルな個人のお店で「出会い」が待っていることもあるし、高いお金を出しても割に合わないことだってある。だが、いわゆる大資本のもとに「出会い」のチャンスが転がり込みやすいことは事実である。大資本において、運営する数多の店舗の一つに時たまやってくる障害者の客一人の回転率など問題ではないし、空間は有り余っている。大資本にとって重要なのは、<高貴さ>を装うことである。プライベートで、親密で、特別で、絵になって、健全で微笑ましい風景をつくりだすこと、この文句のつけようのなさ(といういやらしさ)が人を惹きつける。

そして悲しきは、こうした魅力的な「出会い」という観点が公正で規範的であるべき「介助」の問題をも浸食してゆくという点だ。東京や京都といった大都市と、地方の中小自治体で重度訪問介護の公的支援を受けている人の格差を見てみよ。大都市ならば、より軽度の身体障害に対して田舎の重度障害者より多くの時間数が認定されることだって珍しくない。それだけではない、同じ支給時間数であっても、より社交的な障害者と非社交的な障害者との間で、採用できる介助者の人数が全然違うことだってある。

もはやお金だけが問題ではない、障害の程度も大したことではない。結局のところ、魅力があるところに人は集まり、人が集まるところに魅力が宿る。そこに「出会い」が生まれる。この蓋然性と持てる者の特権化の潜む「出会い」からはじまる恐るべき世界の中に、障害者も健常者も“平等”に生きているのだ。

 では結局のところ、全ての蓋然性と特権を打倒すれば良いのだろうか。そうでもなかろう。障害者と健常者の間で特権を問題にしても、障害者と障害者の間で特権を問題にしても、健常者と健常者の間で特権を問題にしても、相手の特権を批判している人間が常に予め別の特権に依拠しているのだから。障害者手帳が特権だと言いたければ言うが良い、その者は自分が日本という“平和”な国で享受している特権についてはだんまりを決め込んでいる。こんな争いを繰り返しているうちに、各々が享受できたはずの楽しい人生が失われてしまう。

 どうしてこんな嫌な話になってしまったのか。それは、私が「障害者手帳と割引」の関係を真剣に問いかけてしまったからである。だが、なぜ私はそのような<議論しない方が良い問題>に引きずり込まれなければならなかったか。

私の中で答えはそもそも決まっていたはずだ。障害者手帳の割引が実は怪しいものだとしても黙っていよう、怪しいもの全てに絡んでいては人生の浪費だ。割引はないよりある方がいいし、もらえるものはもらっておけ。実際のところ、個人にとっても社会にとっても大した額ではないのだから、と。

ところが、暴かれてしまった怪しさに目をつぶれない人たちが健常者の中にいたばかりか、障害者手帳の割引をそれ単独で商品化できるほど魅力的と素朴に考えることができる障害者がなんといたのだ!この憐れむべきはじまりに対する驚愕ゆえに、私は嫌な話をさせられてしまったのである。はじまりからはじめよう。

 「レンタル障がい者」を「ひまな障害者が必要なシーンでご利用ください」などと語らなくて良かったのだ。それはかのアカウントが本当に語りたかったことではない。いっそのこと、「私をスキーに連れてって」と言いさえすれば良かったのである。

言うまでもなく、自分の心の声に従うことは少しばかりの勇気が必要なのかもしれない。しかし、その勇気ある一歩は本人の人生を楽しくするだけではない。勇気を必要としている誰かに奉仕することでもあるのだ。この奉仕はいかなる形態の社会運動にも劣らぬであろうし、「割引」などのいかなる埋め合わせの社会的お膳立てにも勝る利益がある。その利益とはまさしく、自らを無能力と見なして社会とのギャップに堂々巡りする悪循環を断つことである。

自分の心の声に従えないなんてことは絶対にない。この大切なことを忘れてしまうのならば、あるいは反感を持つならば全ては嫌な話、覚えていられるのならば全ては笑い話である。