前回の「包丁こわこわ事件」の話から、随分と時間が経ってしまった。その間私は入籍し、引越しをし、役所や銀行を駆け回り、忙しく過ごしていた。その間体調を崩すことも少なくなく、また、書くことからおよそ2ヶ月ほど離れており、なんとなく「書く」ということ自体が難しくなってしまっていて、筆が進まなかった。書く筋力というものの衰え。きちんと自分の文章を紡げるようになるのはもう少し後かもしれない。
引越しの荷解きもほぼすべて終わり、新しい自分の作業スペースからこれを書いている。リハビリのような文章なので、稚拙な表現や言い回しがあってもご容赦いただきたい。
題名に、「社交的なひきこもり」と打った。これにはわけがある。
私は不安障害を持っていて、外出すると気分が悪くなってしまうことがある。私はそれを「発作」と呼ぶのだが、発作が出てしまうので気軽にひとりで外出することができない。月一回の通院があるのだが、それ以外はほぼ家に引きこもっている。
友人に「お茶したいね」と言われたときに、私は自分の病気を赤裸々に話し、自宅であればお茶できるよと言えるのだが、それを打ち明けるのも相手に気を遣うし、実際自分の自宅まで来てもらうのは申し訳がないと思うことが多い。
一時期は外で働いていたこともあったので、私にとって外出は「苦痛なもの」であると同時に「またできるようになりたいこと」なのである。
もう一つ、私のパーソナリティの問題を話そう。学生時代はそうでもなかったのだけれど、社会人になってから喫煙所コミュニティで友人の輪を広げるということを覚えた私は、ひとりで会社帰りに行きつけのカジュアルバーに行って常連さんや新規客と話すのが好きだった。そこにはさまざまな人間模様があったし、それらはとても興味深く面白いものだったのだ。会社でも割とお調子者なタイプで、会社の人達とはみな仲良くしたいと思う人間だった。
今は禁煙しているし、所謂「タバコミュニティ」に属して人とのつながりを求めることもなくなったのだが、性格の問題として、社交性だけが残っている状態となった(社交性というより、人恋しいだけかもしれないが)。
こんなわけで、「社交的な引きこもり」という一見すると矛盾した状態ができあがってしまったのだ。これは私にとって結構なストレス要因で、どうしたものかと考えあぐねていたのだが、そのときに力になってくれたのが、閒の「分報」や「カフェときどきバー」というslackのチャンネルだった。
「分報」というのは、前回の記事でも話した通り、個人のslack上のTwitterのようなフリースペースである。そこは大人の自由帳のような形で、自分が感じていることを好きに書くことができる。私はそこに、日々の出来事や、ふと思い出した過去のトラウマを書き散らした。読んでくれている人はスタンプを押したり押さなかったり、コメントをしたりしなかったりで、他の人の分報も見ることができるので見てみたり、そういった緩い交流の中で、私自身の感情のカタルシスが生まれたり、他の参加者に情がわいたりするのだった。私は自分自身の過去のトラウマについて書いたときや調子がおかしいときに反応してくれた人のことを忘れられないし、他の人の分報の内容に涙してしまったときもある。オンラインなのに、テキストベースなのに、自分自身や参加者の人生に少しだけ触れられる。それが分報文化だった。
また、カフェときどきバーというチャンネルではスペーシャルチャットというオンライン雑談システムのようなツールを使って、そのルームに居る人がいつでも雑談ができる場所が設けられている。悠平さんがカフェのマスターをやりますが、ご自由にお使いくださいと言っていたので、私は自ら「では私はカフェのバイトをやります」と名乗って頻繁にルームを開けていた。そのうちもときさんという悠平さんの友人が閒に入ってきたとき、バーもあったらいいなという話が出てきて、もときさんがバーの店主をやります(適当に)という感じであったので、また私が「では私はバーの副店主をやります」と宣言した。これらのやりとりに特別深い意味はないのだが、閒の中の雰囲気というのはこんな感じで、ゆるっとしている。(かと思えば学術書や専門書などを読む読書会があったりして、本当に大人の部活という感じである)。
社交的な引きこもりである私は、閒という空間にとても助けられている。それは多分、営利目的での繋がりではなく、なんとなく「やさしい人」が集っていて、安心して発信することができ、コメントやリアクションを強制されない世界だからだろうと思う。かと思えば結構些細なこと(と私が感じること)を至極真面目に議論したりする。
例えばこうペンちゃん(皇帝ペンギンの赤ちゃんの略称であるところのとあるキャラクター)について愛らしい、肯定してくれるのは嬉しいという話を私がしたとき、Iさんという方が「自分はこのように存在や生き方を無闇に全肯定されても『自分が肯定された』という気がしない 」というレスポンスが返ってきて、そこで私とIさんと他のメンバーが一気に「肯定するということがどのような意味を持つか」という話についてある種哲学的で抽象度の高い議論を繰り広げたことがあった。こうペンちゃんについてそこまでムキにならんでもいいと思われるレベルで、しかし「肯定」という概念が指すことについて議論が深まった(私はこのこうペンちゃん議論について結局難しすぎて頭が回らなくなったので、わかったような顔をしていた私についてIさん初めその場にいたみなさんには申し訳なく思っています)。
まあこんな様子である意味すごく些細な問題や人生をかけて語りたい問題について分報で語り、カフェやバーで集まりあって雑談をし、そういった諸々のやり取りの中で徐々にお互いのことを知っていく、その一連の流れが自分の人生に与えた影響はとても大きいと思う。だって閒がなければ、私は単なる社交性を持て余した引きこもりだったからだ。そしてそれはとても寂しく辛いものだったように思う。でも今は違う。私に「居場所」ができた。それも、自分で耕してきた居場所だ。もちろん、他者からの栄養剤や水やりがあってのことだと思うのだけれど。
さて、最近閒で流行っているのはバータイムに詩の朗読を集まれる人でする活動で、これはもえさんという方が始められた会だ。夜、もえさんはお子さんを寝かしつけた後で、告知をしてスペーシャルチャットで詩を朗読する。それを参加者がじっくりと聞き、噛みしめる。順々に参加者が輪読していくときもある。聞き専として入室してもいい。そんな場があって、もえさんは夜に詩の朗読をすると落ち着く、と言う。そしてそんな場があって素敵だな、と私は思う。
こんな風に、色々なバックグラウンドを持つ人が自分の知恵やアイディアをできる限り駆使してどんどん楽しんでいこうという場が閒である。私は、社交的な引きこもりとして、今日も活動している。