書くこと
昔何かのデータで見たことがあるのだが、日本の成人男性が事務メールやチャット以外に、何らかの無目的的な書き物に費やす一日の平均文字数は日本語で400字程度らしい。原稿用紙1枚というのは、小学生の頃に作文の課題を出されると膨大に思えたものだが、文学部の大学院生となったいまでは、あまりにも紙幅が小さすぎて、ほとんど何も書けない。私はアニメや声優が好きで、しばしばラジオに投書するのだが、400字ぐらいのものが最も採用される印象がある。良心的なラジオでは400字程度という制限を教えてくれるところさえある。Twitterの制限字数は140字(執筆時)で、学者の中には連ツイを駆使してその制限を乗り越えようとする方もいるようだが、それはゲームのルールを破壊している気がして、私の美学に反する。だから私にとってTwitterはもっぱら見る専用である。そもそも「つぶやき」とは一人称で自分のためだけに使う言葉ならば、人に制限字数をつけられる筋合いはないどころか、誰かと繋がることを本懐とするSNSの魅力に根源的に反しているようにさえ思われる。
ちょうど「私の美学」と言った。これは別に「美とは何か」という哲学の一部門としての「美学」の意味ではない。正確を期すなら「私の嗜好」に過ぎないのだが、「嗜好」という言葉にはどうしても、「好みは人それぞれ。だからお互い干渉しない」といった閉じられた言葉の態度が感じられるから、あまり使いたくない表現だ。苺をうまいと思うかまずいと思うかは人それぞれで、嫌いな人を弾圧する必要はないのだが、苺に何らかの思い出があって、たとえばその思い出の中に含まれる甘酸っぱさのような感情を相手にわかってほしいと思うとき、相手が苺嫌いだったらもうそれだけで「不和」(ランシエールの用語を念頭に置いているが、意味が忠実かどうかはわからない)が生まれてしまう。もちろん苺好きでも甘酸っぱい感情を知らない相手とは「不和」があり得る。だから「嗜好」とは、その「不和」をそのまま放っておく諦めとしか思えない。その諦めは言葉の自殺と言ってもいい。これはやや過剰な言い方に聞こえるかもしれない。しかし私の考えでは、言葉とは「わかってほしい」という自分の感情を相手に向けるものであり、さらにその感情を乗せる言葉の前提にある「関係」の絶対的存在こそが重要なのだ。「不和」が残っていることを自明と見なすと、その一番重要な基礎を見落として、かえって「不和」に対する謙虚な態度が失われるように思われる。変な言い方だが、「不和」を解消しようとする努力がなければ、「不和」を意識することなど出来はしない。私が「私の美学」と「学」に相応しくない所有格付きで表現するとき、そこには自分の感情と相手の感情を、言葉によってつなぎ合わせ、透明化しようとする欲望があるし、その欲望は「無理なことをしている」という冷めた目と両輪で駆動している。
しかし、「無理なことをしている」にもかかわらず、「不和」を透明にしたいという私の欲望は、ちょっと人に嫌われやすいところがある。端的に、私は「めんどくさい」やつだと思われてしまう。ところが、私としてはこの「めんどくさい」が気に食わない。つまり、「めんどくさい」というのは、その中身を分析していったなら「不和」を解消できる点があるかもしれないのに(もちろんないかもしれない)、「関係」の絶対性から逃亡して、その探究を止めてしまう言葉の自殺なのである。私の自己保存欲求は多分に言語的であるから、言葉の自殺は見過ごすことができない。だからますます意固地になって、私は「めんどくさい」スタイル、「私の美学」をパフォーマンスし続ける。そうして「不和」は大きくなっていく。
かくして、言語的な自己保存欲求は私の障害でもあるのだが、私が身体に障害を抱えていることによって、そのような言語的な障害が生まれているのだとしたら、私は身体の障害から決して脱出できない以上、この言語的な「めんどくさい」と言われる障害に居直る勇気を持たなければならない。勇気は説明されるものというより、誰かの背中に見てとられるものである。だから、その勇気を見える形にしようと欲望することが私の「書くこと」に他ならない。
書くとき
「不和」の背景にある、私の言語的な自己保存欲求。つまり、私の肉体が言語によってしか支えられていないという、驚くべきこと。このことをごく簡単に説明しよう。
私は生まれてから今日まで、ほとんど片時も一人でいることがない。身体の障害によって、24時間の介助を必要とするということは、自分の身体のあらゆるシグナルおよび動き、喉が渇いた、うんこしたい、本を読もう、3時までに学校に行くために着替えよう等々を言語化し続けなければならない、ということだ。しかし、他にも言語化しなければならないことがある。介助者が人であってロボットでない以上、昨日何してたとか、このアニメどうなのとか、時には「不和」を挟んでの喧嘩とか、自分だけでなく相手の感情も透明化する努力を私は果たさなければならない。もちろん、或る「不和」を解決する過程で別の「不和」が出てくるのが言葉の常であるから、その透明化の努力は不毛と思われるかもしれない。しかし、そう思った瞬間に、私は死んでいる。
なぜなら、「不和」があまり多すぎると、私の身体でもある介助者と私自身が分離してしまって、一つの生命として機能しなくなる可能性があるからだ。詳しくは追わないけれども、一心同体でない手足など何の役にも立たないのだから、素朴な介助=手足論も完全な別人格論も、介助論として等しく間違っている。つまり、私が生命として自己保存欲求から逃れられないというのは、介助者という他人と言語によって適切な仕方で一体となろうと努力し続けなければいけない、ということだ。そしてこの一体性は一体化不可能性に対する冷めた目と両輪で回らなければ、維持できない。したがって、「不和」が残り続けるにもかかわらず、「不和」を24時間透明にし続ける生命活動が必要であり、それは私にとって絶え間ない外部との対流関係の中でしか成り立たない「呼吸」に等しい。私の「書くこと」が「呼吸」であるとしたら、「書くとき」に切れ目などあるだろうか。
否、「話すとき」に切れ目がないとしても、「書くとき」に切れ目はある、という批判がなされるかもしれない。しかし、「話すとき」と「書くとき」に区別ができるという考え方自体が、私にとっては極めて「健常者的」というふうに思える。
ルソーに拠れば、「文字表記は言語を固定するはずのものと思われるが、まさに言語を変質させるものだ…文字表記は表現を正確さに置き換えてしまう。人は話すときに感情を表し、書くときに観念を表すものだ。書くときは全ての語を普通の意味で使わざるをえない。しかし話をする人は調子によって意味を変え、意味を好きなように決める」(『言語起源論』、増田真訳、岩波書店、40頁)という。しかし、ルソーはこの「話すとき」と「書くとき」の区別を自明視しているのではなく、そのような区別は「文字表記」に従属した言語観であり、「感情」を自然に乗せている言葉の価値を、既存の「文字表記」ベースの社会の枠組みの中に押し込めるものだ、と考えているようだ。そして、ルソーが考えていたように、その「文字表記」は結局のところ各国語なのであり、その時代のフランス国家に生きた人々の中に「障害者」はいたであろうか(脚注1)。「声」と「手」のどちらかがあれば言語が形成され得ると看破する際、インドという外国語の舞台で「盲ろう者」を念頭に置くほどルソーの慧眼はさえわたっているが(同掲書、17頁)、そこに「話すとき」と「書くとき」を同じにしなければ「呼吸」ができない生命は見えなかったはずだ。しかし、ルソーが「話すとき」と「書くとき」の区別を批判するとき、来るべき社会に期待したのは両者の和解であって「文字表記」をなくすことではないとすれば、私もまたまさにその旅の途中にあるだろう。なぜなら、自分の身体的な感情をとにかく言葉に乗せると同時に相手の感情を理解しようと努力し、かつ第三者(社会)にそのような生き方をすると示さなければ、つまりどこまでも人を巻き込んでその助けを正統に要求する福祉を自ずからつくらなければ、「話すとき」と「書くとき」を同じにしなければ、そのような危険・不可能を犯さなければ、これまで生きたことがない障害者にこれから生きる場所など切り開けはしないからだ。だから、私の「書くとき」に切れ目などない。
1) そのように考えるなら、以下に述べられる私の自己保存的言語観は「障害者」の言語である以前に、「日本語」の規制を受けていよう。
書くところ
「書くとき」を選ばず、「不和」を透明にし続ける「呼吸」のごとき「書くこと」は、必然的に「書くところ」を選ぶはずがない。ところが、「書くところ」を選ばない場合、「書くとき」を選ばないことの代償とでも言うべきか、例の「めんどくさい」と言われてしまうシチュエーションに追い込まれる場合がある。
たとえば24時間介助を必要とするといっても、実際には常に身体の専門的なケアが必要なわけではない。24時間誰かがそばにいて、何かあったときに誰かにそれを伝えることができればそれでよい。そもそも介助者についても、私が「素人」を適当にスカウトして、私と出会ったときから私にとっての「専門的なケア」を覚えてもらうのだから、実際のところ「専門的」という言葉自体が相応しいかと言われれば怪しい。とにかく24時間「話すこと」と「書くこと」が一体化した「呼吸」のごとき言葉によって自己保存するために、その言葉が成立する要件として誰かがそばにいなければならない。
そのとき本来的に過剰な「感情」は、過剰なあり方そのままに、つまり加工されることなく、言語化し続けられる。すると、その「感情」がより過剰になるところ、たとえば「恋人と一緒にいるところ」は、私の「書くこと」が暴走するところとなる宿命にある。もちろん、介助者と恋人は分けるべきである。このいわゆるケアの外部化について、納得のいく異論を私は見たことがないし(閉じた家族観しか見たことがない)、私も異議申し立てをしない。ただし、「感情」が過剰な恋愛空間において、冷静な区別をするべきという主張がほとんど意味を持たないように思われるということも私は知っている。そもそも、私が介助者と恋人を分けていても、私の目の前に立っている恋人は「彼を介助しなければいけないか」と勘違いをして、つまり「不和」を起こして、「めんどくさい」という結論に勝手に進んでしまう可能性がある。そして私自身、すでに述べたように、人を巻き込んでいくような言葉の自己保存に突き動かされている以上、そして二人だけの場所を確保したいと思う以上、お茶飲ませて(介助を盾にした“アーン”)とか、手引っ張って(介助を盾にした“スキンシップ”)とかにおいて、冷静な区別はつかないし、話す内容も相手の「感情」に異常な注意が向いたもの、相互の理解を過剰に意識したものになっているのだろう。そして、自分ではその瞬間に過剰な「書くこと」が暴走しているかどうかを冷静に判断することはできない。そしてその判断不可能性は、私が24時間誰かを必要とする限り、決して克服不可能であり、そこに居直る勇気を持つことしか私にはできない。
書く道具
このように考えてくると、私にとって他人は、介助者だろうが恋人だろうが友達だろうが先生だろうが家族だろうが、私が言葉によって生きるために欠くことのできない「書く道具」と思われてくる。もちろん、「書く道具」であると同時に「話す道具」でもある。現に、私はこのエッセイを「話す」ことによって介助者に代筆してもらい、「これどういうこと?」なんて話しながら、「書いて」いる。「道具」というのは、人間をモノ化している表現だから上で否定した「ロボット」と混同されるおそれがあるだろう。しかし、人間とモノの違いを想定して、人間に「自由」を置いてモノをその欠如として理解すること自体何ら明白ではない。そのような人間中心的な「自由」の観念には、結局「自由」を「自分一人で動けること」と見なす「健常者」の自己投影がある。それは言葉の豊かで過剰で冒険的な本性を見落とし、言葉に必ずついてまわる「不和」を放っておいても生きていけるような「健常者」中心的な「自由」であって、そこに私の居場所は無いように思われる。そして、「書く道具」=「話す道具」として他人を想定する過剰さこそ、実は他人との「不和」に誠実に向き合うこと、そしてそれを乗り越えようと無理な勇気を生きることに他ならないのではないか。
というようなことを、2時間で4000字以上介助者を「道具」として一気に話し、書いた。このプロセスについて恋人を「道具」として行った場合、これほど明晰に「話すこと=書くこと」は出来ないかわりに、もっと過剰な感情を「話すこと=書くこと」が出来るのかもしれない。このどっちつかずで、過剰なあまり自己保存なのに気持ち悪くて、それでもその危険な道草の中にしか生まれないような言葉の中に、私が生きるべき「自由」がある。
だから、ギャグマンガを讃えよう。過剰な感情をところかまわず吐き散らして、それを勇気づけるように笑い、笑われる世界を。「めんどくさい」ではなくて、「おいいいいい」とか「なんでやねん!」とか「不和」を笑い飛ばすツッコミをよろしく、新八!ヒメコ!