相手からの言葉を急がないということ

自分の考えを必死に連ねた長文のLINEを知人に一通送って、既読がついても返ってこなくて、もう一通追いLINEをしてしまう自分がいる。自分が送った文言が意図した形で届いているかという不安から追いLINEをしてしまうのだが、それによって「相手の会話のペースを崩してしまったかもしれない、なんなら私の言葉で相手の人生の一部を毀損してしまったかもしれない」と自己嫌悪に陥ることがある。単純に相手が忙しいだけかもしれないし、よくあることのようだけれども、未読や既読スルーを経験すると「万が一その人のことを私の言葉で傷つけていたらどうしよう」と胸がざわつく。

既読スルーで終わった人間関係がどれだけ私にあるだろう。どの人も私にとっては大切な友人のひとりひとりだったはずなのだけれど、相手にとって私はその辺の塵と同じくらい軽くてどうでもいい存在なのかもしれない。いや、私が相手を不快にさせたのか。もしかしたら恨まれているかもしれない。ただ答えがわからずに悶々とする。

一方で私には腐れ縁のようにほぼ毎日LINEをする元彼が数人いる。相手から「しごおわ~」「おつかれ~」等々のLINEが来ることもあれば、私から「げんき~?」と送って延々とラリーが続くこともある。夫には全部の過去の人間関係を話してあるので、「今日の〇〇くんはどうなん」と問われたりもする。

この差はどこからくるのだろうと思う。一言を投げかけるにはエイヤと心を決めてからLINEを送る相手。心と心の間には、目に見えない、けれど確かな壁がある。元彼たちとのLINEは気楽だ。本当に適当に「おつかれ」「マジか」を連呼し続けていても成り立つコミュニケーション。こっちの方がよほど私にとって健全で、ありふれた日常だ。

けれど、ふとしたときに、どうしても特定の誰かにLINEをしたくて、エイヤで本文送信をすることがある。見えない壁。見えない壁。見えない壁。こわい。そういうときは自分の思いで頭や胸がいっぱいになっているときで、その心情を今伝えないでいつ伝えるんだ、というものが多い。

アラサーには通じるだろうが、昔私は何度も何度もセンター問い合わせをするような人間だった。今だって、何度も何度も、既読がつくか見る。既読がついたら、返事が来るかどうか待つ。Twitterを流し読みしながら、Instagramを眺めながら、そしてiPhoneで逐次画面変遷をしながら、返事をずっと待つ。

「不毛だ」と思う。

ある友人が元気なさそうにしていたので、心配でLINEを送る。返信がない。既読もつかない。心配になる。すると彼は何日後かになって、「スマホの電源切ってました、復活しました」と言う。私は、ああ、私と距離を取りたかったのかな、と邪推してしまう。きっと彼は本当に電源を切っていたに違いないし、なまじそうでなくとも私を気遣ってそう言っているのだろう。

「不毛だ」と思う。

こういった私の一連の行動は単純な・ちょっとした被害妄想から来るものに過ぎないかもしれない。けれど、言葉というのは相手を包み込む優しいゆりかごのようにもなれば、相手の喉元にナイフを突きつける凶器になることもある。それをわかった上で、相手に手紙を書くような気持ちで、LINEの文章を送らなければならないな、と思う。

要は、エイヤで送る文章は、何度も何度も推敲して、もうこれしかないというくらい書き直して、微修正をして、それから送らなければならないと思う。

最近さまざまなメディアで書き物をしている大学の後輩が書いた記事に、ひどく感銘を受けたというか、私が今抱えている悩みを見透かされたような感覚を得て、そしてそれはとても心地いいものだったのだけど、その記事についての感想を思いつくままにザーッと書いて勢いでLINEしてしまった。このときはたぶん彼女は忙しかったり、私が彼女との距離感を取り損ねていたり、色々な理由が考えられるが、既読がついてから返信まで少し時間がかかった。その間悶々と、冒頭で書いたようなことを悩んでいたのだ。

「不毛だ」と思う。

誰もが即座に返信することはできないし、みんなそんな暇じゃない。既読スルーするにはそれ相応の理由があったのだろう(その多くを想像することはできるけれど)。私はきっと、不毛なことで悩むのが好きなんだろう、と思う。けれど万に一つ、私の言葉の軽さが、誰かを傷つけることがありませんように、そう祈ることしか、私にはできない。

他人の心の中に土足で踏み入りたくはない。そんなことばかりを思う最近だった。