「家族」というのは未だによく分からないけど、つくりたい「家庭」はあってだな

「それではみなさんご一緒にどうぞ」

「「「いただきます」」」

みんなのアイドルT君(5歳)のかけ声に従って手を合わせ、箸をとる。茶色くて脚の低い長机をコの字型に並べ、部屋の中央にはやや大きめのストーブ。食卓には各々の茶碗や汁椀、それから大皿に盛られた揚げ物やサラダや漬け物やらが並ぶ。部屋の角にはおかわり用の大鍋も。

中高生ぐらいのスキーキャンプだか修学旅行だかを彷彿とさせるような空間に、はじめて出会う世代バラバラの人たちと、僕は一緒に過ごしていた。
 
 
ここ数年は、ニューヨークだったりパリだったり東京だったり神戸の実家だったりと、毎年違う場所で年越しを迎えていたが、今年の年末年始は長野の白馬だった。妻の実家家族を含む、妻の出身高校のOBOGたちが長年に渡って山小屋を運営しており、年末はそこに老若男女ちびっ子みんな集まってスキーをしたり宴会をしたり新年を祝ったりするのが恒例行事だそうで、僕は今年の年末、そこに混じって過ごすことにしたのだ。

夜は酒を飲み、朝昼は本を読んだり寝たりの繰り返しで、たまに散歩に出て白馬の山々を見やり、夕食前には温泉に行き、メシを食い、そしてまた酒を飲み…と12/30の夕方から1/2の朝まで、合計3泊。
(OBの中には服部栄養専門学校の先生もいて、毎回出てくる食事の旨いこと)

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今年は雪が少なかったらしく、スキー場のゲレンデも一部閉じていたが、ともあれ北アルプスの山々は美しかった。

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こんな風に宴会したり

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除夜の鐘は年が明けてから撞くスタイル。小屋の玄関に小さな鐘を吊るして、お神酒を飲んで、みんなでカンカンカンと代わりばんこに合計108回撞く。近くの小さなお宮に行ってささやかな初詣。

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ちびっ子たちも綱を引っ張って全身で鐘を撞く。よいしょー。
 
 

山小屋の名前は「神城山荘」という。年末年始に限らず宿泊施設として利用もできるし、年末年始の宴会も高校コミュニティ外の人も歓迎とのこと。今回は妻の職場の元同僚と、彼が誘った友人2名も遊びに来てくれた。

うち一人は保育士で、冒頭のT君はじめ、パパママ世代の皆さんが連れてきたちびっ子たちと元気に飛び回って遊んでいた。
(初対面の彼に開口一番「さま~ずの大竹に似てますね!」と言われたことは軽くショックだったが)

ちびっ子たちの中には、人見知りが強めの子もいれば快活で物怖じしない子もいる。大人たちは、子どもたちそれぞれの気質のままに変な介入はせず、しかし安全には気を遣いながら、肩車をしたり雪合戦をしたり配膳を手伝ってもらったりと銘々の関わり方をする。

自分の親以外の色々な大人たちがいる集団と自然と触れ合える機会があることは、子どもが育つ上でけっこう重要なのではないかと思う。と、僕がもっともらしい小理屈で解釈するまでもなく、居心地のいい空間だった。
 
 

 
 
ここまで書いて、なんだか不思議な感覚がする。

根暗で人見知りの自分が、よくぞまぁ初対面の、なおかつ自分の出身校でない高校同窓会のコミュニティに、妻の繋がりがあるとはいえ、飛び込んだもんだなと。そして意外とその場を楽しめているという事実。

ちょっとは大人になったなということなのかもしれないけれど。まぁとにかく我ながら興味深い変化である。

初回の記事にも似たようなことを書いたが、僕は血縁・地縁といった自分の意思以前にアプリオリに与えられるウェットで土着的な関係性に対して、ちょっと及び腰というか、あまり実感や愛着を持ちにくい気質なのだ。

別に神戸の実家家族との関係が険悪なわけでもなく、家庭崩壊しているわけでもないので、外から見るとおおむね「普通」の範疇に入る家族関係なのだろう。

ただ、実家や地元コミュニティの文化に対して、自分自身の気質が端的に「フィットしなかった」という自覚はあって、盆暮れ正月、一族郎党・一家団欒の場において、その場に当たり前にいるべきメンバーの一人=血縁家族として数えられながらも、心ではいつも「所在の無さ」(居心地の”悪さ”とまでは言わないが)を感じていた。

「ひとり」でいる自由が担保されている東京という街は、自分の肌に合っていたようだ。上京してしばらく経つと関西弁は消え、地元に帰る頻度も下がり、家族との連絡も億劫になっていった。もちろんこれは僕個人が心中こじらせていただけの話で、両親は変わらず大事な息子として自分を見守っていてくれたのだろうけど、意識的にも無意識的にも、実家家族と過ごす時間を最小化しようとする指向性があったのは否めない。

しかしまぁ、アラサーになってようやくというか、自分なりの足場も出来つつある今、血縁・地縁的なコミュニティに対する心持ちがだんだんと変わってきた。良くも悪くも、変なこだわりはなくなってきたと思う。

「子どもは生まれる家を選べない」という言葉は、まぁ確かにその通りなのだけど、大人になった今は、選ばずして共に過ごしてきた家族との、「その後」の関わり方や距離感を選ぶことはできる。

育ててもらった自分の両親や祖父母に対しては、まだまだ甲斐性もないが、息子としては何らかの形で返していくつもりではいる。でも別に、親子だからといって関わり方や距離感までウェットにするつもりもないし、妻を「嫁」としてイエの慣習にどうこう縛り付けたくもない(幸いにしてうちの家はそんな文化でもないし、距離も離れているので、古典的な嫁姑問題は別に起こらないのだが)。

盆暮れ正月はその時の状況によって帰ったり帰らなかったりする。とはいえほどほどに近況連絡はする。老い先短い祖父母の具合が悪くなれば、可能な限り急ぎで帰って顔を見せる。今ぐらいの距離感が一番ラクだなと感じる。

この年末年始をご一緒させてもらった妻の実家のご家族やご親族、地元高校のコミュニティの皆さんには、妻の夫ということ以外(それが大きいこととは自覚しつつ)、縁もゆかりもない根暗男子を混ぜてもらったことに感謝している。僕が知らない2,30年の時間の厚みに対して敬意を払い、新参者としてちょこんと末席に座らせてもらいながら、これからじわりじわりと無理ないペースで皆さんのことを知っていき、そして混ざっていければと思う。
 
 
お互いが生まれ育つなかで紡がれてきたご縁に対して、礼節と責任を果たしつつも、しかし同時にささやかな自由も享受したい。もちろん相手の自由も大切にする。それぐらいのスタンスで、「家族」や「地元」なるものとはお付き合いしたいなと、今はそう考えている。
 
 

 
最近ちょっとした野望がありまして。
端的にいうと家がつくりたいんですよ。

自分と妻と、そのうち生まれるであろうわが子たち、つまり血縁家族の住まいだけじゃなくて、友人たちが気軽に来て遊んだり休んだり出会ったりできる場所。

「あなたとわたしとみんなの家」(仮題)。

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ある時は、ちびっ子たちの寺子屋に。
またある時は、つくり手たちのアトリエに。
疲れた人はいつでも休みに来ればいいし、
ただ座ってボーッと過ごしてもいい。

誰もが思い思いの過ごし方を出来て、
自然体の自分でいられる家。
偶然居合わせた人同士で、新しいご縁が生まれる家。

そういう家を、つくりたい。

今まで出会ってきた人のなかには、安心して帰れる「家族」や「地元」が無いという人もいた。上で長々とこじらせたことを書き連ねたけれど、色んな家族事情、色んな人生があるなかで、たとえ元々の「家族」とは違うかたちでも、その人にとって安心できる「家庭」となれたらいいなと思っている。

地方からやってきた自分を受け止めて育ててくれたこの東京で、何もなければ今後も暮らしていくつもり。
色んな地方や国にも行ったけど、この街にひとつ、「ふるさと」を作っていきたいなと思っています。

というわけで、物件募集です。
1核家族の住まい分の部屋+ゲストも訪ねる広めのフリースペースを設けられるような(庭もあるとベスト)、2DK以上の物件を探しています。

都内で安く譲ってもらったり借りたりできそうな古民家とか、
古民家じゃないけどリノベーション可能な一軒家とか、
なにか有力物件情報あればぜひご連絡ください。
(この人に相談したら良いよとか、ここで探すと良いよとかいう情報も大歓迎です)

と、最後おもむろに物件探しとか始めちゃって締まらない感じですが、2017年もよろしくお願いします。

ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

社交的な根暗がアラサーになっていつの間にか結婚して思うこと

「結婚とか、しなさそうだったのに」
「よく言われるよ」

持って生まれた気質なのか、はたまた環境がつくった性格なのか、誰か特定の人や集団と、長期的にウェットな関係を結ぶという発想や動機に乏しく、愛とか絆とか血縁とか、そういうのはぶっちゃけ、よくわからない。

付き合いが続くも途切れるも、それは僕が決めることではないし、来るものを拒む理由も去るものを追う理由もない。
そう思って生きてきたし、今も概ね、そう思って生きている。
 
 
そのくせ、惚れっぽい。

恋愛という意味に限らず、その場その場で出会った相手にはものすごく影響されやすく、すぐに相手のことを好きになる。出来るかどうかはさておいて、その人のために自分が出来ることならなんでも頑張ろうって気持ちになる。

その上、気を遣う。

相手の期待に応えなきゃという責任感が自分の中で勝手に増幅して、しかもそれを複数方面に対して背負っていくものだから、理想と現実のギャップからしょっちゅう自己嫌悪に陥る。

「過剰適応だ」と妻にはよく言われる。減点法の男。

淡白なのに惚れっぽい。他人に期待したくないのに他人の期待には応えたい。

そんな矛盾だらけの「社交的な根暗」として色々こじらせながら生きてきました29年。振り返るとすり傷だらけの黒歴史で、とりわけ恋愛関係は長続きしない刹那的なものがほとんどだった。

わけですが、いつの間にやら結婚しておりましたと。自分でもびっくり2016年。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

3月に入籍して、10月の終わりに、式と披露宴とパーティーを開いた。

それは、「ささやかながら」などと表現したら失礼になるような、過分で、幸せな時間だったと思う。

色々と相談した結果、親族も含めた「ゲスト」の皆さん同士をお繋ぎできるような会にしようと、司会は新郎新婦、食事や引き出物はお世話になった方々から取り寄せたゆかりの品々で構成、テーブルも所属や関係性ごちゃ混ぜでお話しできるような形の披露宴を企画した。
(あれは嫌だこれは出来ないと、新郎がリベラルこじらせた結果でもある。式場の方にはずいぶん好き放題要望を聞いていただいたと思う)

夜のパーティーも、もうなんか友人みんな集合ーってな感じで、方方にお声がけした結果200人ぐらいの規模になっちゃって、みんなと代るがわる挨拶したり写真を撮ったり、またぞろ自分たちで司会をしたりと嵐のような時間だったけれど、とにかく楽しかったのを覚えている。みんな新しいお友達、できたかなぁ。
(これまたお店の人と幹事の友人にはずいぶんとお世話になった)

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「いや、もうこの日本式の披露宴のしきたりからその成り立ちから意味わかんないし、そもそもこの結婚制度とかイエ制度とか…」
「あなたがその形式が嫌なら、やりたいようにやればいいじゃない。お世話になった人たちにご挨拶できれば私はどんな形でも良いし、型に囚われてるのはあなたの方よ」

「えー、でもほんと200人とか、会場大丈夫だろうか。ぎゅうぎゅう詰めで、楽しんでもらえなかったらわざわざ来てもらうのに申し訳ない…」
「あなたが会いたいと思う人に一人ひとり声かけたんでしょ。来てくれるって言うんだから私たちは全力で準備してもてなすだけじゃない」

一事が万事そんな調子で、高まったり落ち込んだりしながらの準備期間。3マス進んで一回落ち込む、みたいな誰にも頼まれていないのに謎の牛歩ルールですごろくを進めているようだった。

だけど、実際にその日を迎えて終わってみると、本当にとっても楽しかったし、みんなに来てもらえて嬉しかった。やって良かったと思える会だった。

僕はいつもそうで、何かが結実するまでの過程はうじうじする癖に、終わってみるとスッキリ満足するのだから調子が良い。

アラサーにもなってこの性格。たぶんそうそう変わるもんでもなさそうな気がするが、ごちゃごちゃと言いながらも結局は皆さんのお世話になるのだから、そろそろ腹を括ろうかなと思ったりもしている。これからもきっと、みんなに生かされていく。
 
 

 
 
僕が今、「ここにいる」こと
僕が今、妻と「一緒にいる」こと
僕があなたたちと、今もまだ「途切れずにいる」こと

それらはすべて結果でしかないから、理由や因果を問うてもわかるはずがない。未来にこの人たちと一緒にいられるのかも、わからない。

だけど、妻や友人や先輩や後輩、関係が結ばれた色んな人たちに対して、”今”自分が思っている気持ちは事実だから。その”今”が未来へと向かっているのなら、未来でも同じ時間を過ごしたいと思うのなら、そのことに対しては誠実でいなくちゃな、と思っている。

自分が選んできたことの意味、自分が大切にしている人やもののことを、一つ一つ確かめていくことは、「これから」を生きていくうえで、きっと大切なこと。

 
仕事のこと
暮らしのこと
妻のこと
友人のこと
いくつかのふるさとのこと
これからのこと
それから、ここ「アパートメント」のこと

久しぶりに自分の部屋を持って、色々と書き連ねてみたいと思います。
(〆切に追われながら)

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(友人の仲道萌恵さんにつくってもらった結婚指輪)
ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

祖父の病室

関西出張に合わせて休みを取り、母方の祖父の見舞いに行った。神戸で母と合流して車で岡山へ。美作市という、田畑が広がる県北東部の田舎町が母の出身地である。

祖父はここ数年でずいぶんと弱り、入退院を繰り返している。以来、母は働きながら月に2回は岡山に帰り、見舞いに行くという生活を続けているが、私は留学やら仕事やらにかまけてほとんど顔を出していなかった。

強い雨風に降られながら、高速道路を抜け、母の実家近くの小さな病院にたどり着いた。昨年も大きな手術があり、その間は県の中央病院で措置を受けていたが、少し落ち着いてきたため、最近転院してきたそうだ。

地図を読めない母は、「2階」という情報だけを頭に入れて、受付も案内図も無視して上階へと上がっていく。案の定変なところに迷い込む。1階受付まで連れ戻して職員さんに聞くと、祖父の病室は別館にあるらしい。

渡り廊下を渡ってエレベーターで東館の2階へ。1階受付で聞いた番号の部屋にたどり着くと、違う人たちの表札が張ってある。あれれと思ってナースステーションでもう一度聞いてみた。

「あ、今朝、部屋変えたんですよ」

案内された部屋は2人部屋で、祖父のベッドは窓際にあった。

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「景色も見えないと飽きるだろうと思って。ここだと電車も通るから。田舎だから1時間に1本ですけどね。」

祖父は眠っていたが、母と私が声をかけると目を覚ました。

母が問う。
「お加減いかがですか?」「みてのとおりじゃわ」
「この子の名前覚えてる?」「ゆ うへい か」「そうそう。孫を久しぶりに連れて来ましたよ」

私も話しかける。
「帰ってきたよ」「いつきたんだ」「今日着いたところ」
「※●※■○んか」「え、なんて?」
発音が不明瞭なのでところどころ聞き取れない。
「くぅあできたんか」「あ、そう、車で来たんよ」

「今度結婚するんよ」「どこのひとなんあ」「東京の人」「いつするんだ」「3月頃かなぁ」「そいたらわしはいかれえんなぁ」
祖父は、もう自宅には帰れないだろうと言われている。
 
 
16時になったので、テレビをつけて水戸黄門を流した。寝たままでも見られるようにテレビは天井から吊り下がっている。枕元にあるイヤホンを引っ張りだして祖父の片耳にはめる。「恐怖!凶賊卍衆」という回。イヤホンが両耳分あれば一緒に視聴することができたのになぁ。

少し遅れて、従兄弟兄弟もやってきた。同じように祖父に話しかける。ほどなくして食事の時間となり、看護師さんがやってきた。

祖父はもう自分で飲み食いをすることはできないので、胃ろうカテーテルで栄養を摂取する。ウィダーインゼリーのようなパックに入った栄養剤を看護師さんが注射器に詰め、それをチューブに指して祖父の胃に流し込む。透明でほとんど水みたいなものや、薄橙色のドロリとしたものなど、何種類かの栄養剤が4回、5回と流し込まれていく。「食事」が終わるとチューブには蓋がされ、脇にある医療台に使用済みの注射器が並び置かれた。一連の動作が実になめらかで、私はしばし見とれていた。

17時が過ぎて、母も夕飯の支度をするというので、祖父とお別れをし、その日は母の実家に泊まった。祖母も、母の兄弟夫婦も、従兄弟兄弟も、その他親戚のおじさんおばさんも、一族郎党がぞろぞろと集まってきた。母の実家は、夕食も宴会もシームレスに続いていくのが特徴で、ちびちびと飲み食いしながらうだうだと夜遅くまで話し続ける。私はだいたい2時間頑張れば良い方で、早々に布団のある居間へと退散してしまう。
 
  
*  
 
翌朝。病院から祖父の意識がなくなったと電話がくる。その後すぐに回復したのだが、母と、従兄弟兄弟家族と揃ってもう一度病院に顔を出す。一日経ってもう一度対面した祖父の顔は、少しくたびれていた様子である。

6人ずらり。みんなが祖父を取り囲んでまた例のごとく「名前覚えとるか?」と聞く。祖父は順番に答える。「僕は?」「じゃあ私は?」スムーズに名前が出てくることもあれば、「なんだったかなぁ」と思い出せないこともある。その時は頭文字を言ってヒントを出す。母が私を指して「じゃあこの人覚えてる?」とまた同じ質問をする。私は答えられても答えられなくてもどちらでも良いと思いながら聞いていた。

名前を尋ねる、というやり取り。放蕩者の私が気まぐれに顔を出した昨日・今日に始まったことではない。ここ数年、母や従兄弟家族は何度も何度も繰り返してきたのだ。その度に祖父は、思い出せたり、出せなかったりしながら、少しずつ、少しずつ弱っていく。

もう家に帰ることも、自力で歩くこともない。
カテーテルで胃に直接「食事」が注入される。
「お茶を飲みてぇなぁ」といっても叶わないから、霧吹きで水を吹き入れる。
時おり痰が詰まって酷く苦しそうに咳き込む。

小康状態はあっても、「良くなる」ことはない。
未来ある私たちが「自己決定」を合言葉に遮二無二走っている世界とは対極の時間が、祖父と、祖父の周りには流れている。

それでも
親族は見舞いに来る度に祖父に名前を尋ねる。
看護師さんは毎日おむつを取り替える。
祖父は、毎日16時には水戸黄門を観る。

続く限りは、同じようなやり取りを繰り返す。

岡山・美作、じいちゃんの田んぼ、カエルの音

母方の実家は岡山の美作にあって、この土日久しぶりに帰っていた。じいちゃんとばあちゃんは農家である。僕は生まれも育ちも父の地元である神戸だが、このじいちゃんばあちゃんのお米と野菜を食べて育ち、小さい頃の夏休みなどは、年のほとんど違わないいとこ兄弟と一緒に野山を駆け上がったりNintendo64をして遊んだ。

じいちゃんとばあちゃんは農家「である」と言ったけど、半分ぐらいは農家「だった」という表現も当てはまるかもしれない。ばあちゃんはまだ元気に畑をいじっているが、じいちゃんの方は、父方の祖父母とは比較にならないほどここ数年で衰弱してしまい、もう田んぼを耕せる身体ではない。そういうわけで、田んぼの方は親戚のおじさんが引き継いで管理してくれるようになった。じいちゃんが弱ったのは、心筋梗塞や肺炎などが色々と重なってのもので、今年僕がNYにいる間も、かなり危ない状態に一度陥った。母は、退院後に事後報告でメールをくれたが、親族一同、いよいよかと思うほどであったそうだ。今回帰ってきて僕自身がじいちゃんと対面した限りにおいては、1年前の印象とそこまで変わらなかったけど、それは別に元気ハツラツという意味ではなく、弱った状態でしかしどうにかこうにか命が続いてくれているというだけの話だ。毎食後に4,5錠ほどの薬を飲んでいる。よく痰がからむ。

じいちゃんばあちゃんの土地も含めて、家の周り一帯の田んぼでは田植えももう終わっていた。畦を散歩しながら、時折しゃがみこんで水の張られた田んぼを覗き込むと、大小様々な虫やカエルたちと出会う。帰ってくる直前に読んでいた本、宇根豊『農は過去と未来をつなぐ』によると、日本の田んぼには5,600種あまりの生き物がいるそうな。

夜、縁側に横になっていると、カエルと虫たちの鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。昼間とは比べ物にならない物量で、縁側の窓ガラスを一枚隔てた外の世界は、文字通り彼らの音で隙間なく満たされ埋められている。窓を開けて外へ出れば、きっと僕もその中に溶けることができたのだろうけど、帰国直後の東京と関西間の頻繁な移動による疲れと、NYとの温度差に驚き夜を半袖で過ごしたために、ここ数日少し風邪をひいてしまったものだから、立ち上がって駆け出すほどの元気も持たず、くしゃみをしながら座椅子でうたた寝をした。

さっきまで僕もいた台所では賑やかな話し声が聞こえる。食事の後もそこに残って飲んでいるのは、母と、いとこ兄弟の両親、つまり母の兄弟であり僕からしたらおじさん・おばさんと、それからその、じいちゃんの田を引き継いで耕してくれている親戚のおじさんと、そのおじさんの姪っ子夫婦。ばあちゃんは居間でテレビを見ている。じいちゃんはその隣の寝室で早々に眠りについた。僕がそこを抜けだして縁側に来たのは、まぁ里帰りの常で、NYで何をしている、将来どうする、仕事は結婚は…となかなか決まり悪く恥ずかしく答えにくい質問が飛んでき出したからで、要は緊急避難である。

ほどなくして、「風呂が沸いたからはよへぇれ」とばあちゃんが起こしにきた。続いて母も同じことを言う。もう少しじっとしていたかったけど、一度言い出すと僕が動き出すまで気をもんで何度も言ってくる二人だから、重い腰を上げて風呂に移動した。風呂は田んぼや畑がある側とは反対側だから、縁側ほどではないけれど、湯船のなかからもやはりカエルの声が聞こえてきて、そこでまたゆっくりする。布団に入って本を読みながらそのまま眠りにつく。

翌日日曜日は9時過ぎまでゆっくり寝て、午前中に母とじいちゃんばあちゃんと一緒に墓参りにゆき、山の中腹にあるその墓の草むしりをして線香をあげ、「ばあさんがいんでしもたらここに入れてくれな」などとばあちゃんに言われ、昼はそのばあちゃんがいつも揚げてくれる大好物のコロッケを頬張り、それから車で神戸へと発った。