街中や電車で「ヘルプマーク」を着けている人を見かけることが増えた。外見からは見えにくい困難さのある方が、周囲からの認知・援助を得やすくするための意思表示のサインとしてつくられたヘルプマーク。東京都で2012年から作成・配布がはじまり、現在ではほとんどの都道府県で配布されている。仕事柄、比較的早くから知っていたのだが、目に見えて一般に普及してきたなと感じたのはここ1-2年(2018-2019年)のことだ。
東京で暮らしていると、一日1回は目にするぐらいになった。それどころか、乗り合わせた車両内にヘルプマークをつけている人が2,3人いる、という状況に出くわすこともまったく珍しくはなくなった。ヘルプマークを使用している人は、義足や人工関節等を使用している人、内部障害や難病などがある人、発達障害、精神障害や知的障害がある人、または妊娠初期の人など、多岐にわたる。入手するために障害者手帳や医師の診断は必要ない。ヘルプマークを必要とする人なら誰でも、市区町村の窓口や駅などで簡単に入手することができる。
ヘルプマークの普及によって可視化されたのは、世の中にこれほど多くの「見えない困難」がある人がいる、という事実である。ヘルプマークのことを知らなかったり使いたくなかったりで身につけていない人や、思うように外出ができない人がその背後にいると思えば、実態としては目に入る以上の割合だろう。個別の疾患や障害当事者の人数なら、少し調べればさまざまな統計・調査から、数字として知ることができる。だけど、日常生活を送る私たちの肌感覚に迫る形で、「こんなにもいる」ことを示すマークは、これまでなかったのではないだろうか。
しかし、と、ここまで書いて考える。
この車両全体を見渡したとき、「見えない困難」は、実はもっとたくさん隠れているのではないか。
お腹が痛くて必死に下痢を我慢している人、足をくじいてしまって立つのもやっとな人、連日のハードワークでくたびれきっている人、想い人に振られて今にも泣き出しそうだけど必死にこらえている人。マタニティマークもヘルプマークもつけていない。杖もついていないし車椅子にも乗っていない。声をかけたとして、誰かが助けられる類の困りごととは限らない。だけど、なんらかのマークで表象されていないけれど、すぐ目の前のこの人が、今にも助けを求めたいぐらいにいっぱいいっぱいである、という可能性は、決してゼロではない。
もちろん、ヘルプマークをつけている人たちも、今がどういう状態か見ただけではわからない、という点では同じである。内部疾患などがあり、身体が他の人以上に疲れやすい人、発達障害や精神障害があり、何かのトリガーでパニックや癇癪が起きる可能性が他の人より高いという人、などなど、他の人たちと比べて、困りごとが起きる「リスク(確率)」が高い、でもそれが表面上では区別がつかない、という人たちがヘルプマークをつけている。リスクが高い、というだけで、比較的元気なときもあるだろう。
車椅子に乗っている人はどうか。電車の乗り降りの際に駅員さんがスロープを設置しているように、移動においてニーズがあるということは一見してわかる。だけど、実は同じ人がトイレ介助のニーズも持っているかもしれなくて、たまたま介助者が同行しておらず、誰かに頼みたいけど、赤の他人にはなかなか頼めない…という「見えない困難」を抱えている、かもしれない。
健常者という言葉があるが、「常に健康な者」なんているのだろうか、と思う。同様に、「障害者」とカテゴライズされる人が、いつ何時も同じ「障害」があるわけではない、とも言うことができる。個々人のコンディションの波と、その時の状況で、私たちの「ニーズ」は微妙に揺れ動く。
「ヘルプマーク」の意味がない、と言いたいわけではない。「みんな困ってるからみんな我慢しようよ」と言いたいわけでもない。他の多くの人と比較して、常時、または持続的な困難がある人を「見える化」するための社会共通のシグナルをつくり、それを持つ人を「優先座席」というセーフティネットで受け止めやすくする。それ自体は必要なことだと思う。ヘルプマークも、まだまだ普及の途上だから、多くの人に知ってもらえると嬉しいな、とも思う。
しかし同時に、いまこの瞬間、車両にいる誰かが、より見えにくい困難を抱えているかもしれないということを、どう考えれば良いのだろう、と逡巡する。問うても答えがないことはわかっているのだけれど、私たちは、いつ誰が相対的な「弱者」となるかわからない、という不確実さの中を生きているのは事実なのだ。
こうした話をするときにいつも思い出すのは、ブロガーのfinalventさんによる「誰が弱者か?」というタイトルの記事だ。優先座席啓発のポスターを揶揄するネット上のネタを題材にしながら、政治・経済といった構造上の問題に言及しつつも、今この瞬間に誰がどのポジションにあるか、つまり「弱者」というのは偶然だろうと彼は言った。それだけを聞くとお先真っ暗な感じもするが、その偶然を不可避なものとして、その人固有の人生を送ることで、弱者も不幸も意味を失うのだ、とも続けている。これを読んだのが当時、寒空の下、たったひとりで貧乏留学をしていたニューヨーク時代(おまけに彼女に振られたあと)だったので、淡々とした彼の語り口と、自分の置かれた状況を照らし合わせて、だいぶと救われた気持ちになったのを覚えている。
しかしいま改めて読み返して、それでもやっぱり、偶然が偶然で終わらない(と、少なくとも思える)社会であれば、と願う。偶然のめぐり合わせとして、自分が突発的に「弱者」になった場合、あるいはそういう人を見かけた場合に、少しでも助けが得られやすい社会になっていってほしいし、していきたいと、僕はまだ思っている。
こと東京に関して言えば、さらに電車の中でのめぐり合わせと優先座席と助け合いの問題に絞って言えば、そもそもこの街には人が多すぎて、とてもじゃないが電車移動の際に他人を気遣う余裕など持てない状況に押し込まれている。それ自体は個人の倫理ではなく、マクロな政策として解決していくべき問題なのだろう。
とはいえ、この街の人たちが、他者を助ける力を潜在的にも持っていないかというと、そうではない、と僕は言いたい。
良くも悪くも雑で開けたニューヨークから対照的な東京の街に帰って来て、毎朝・毎晩中央線に揺られて自宅と職場を行き来する生活を初めて間もないころ、今でも覚えている出来事がある。
*
「ゴッ」
帰りの電車がちょうど中野駅に着く頃、車内で突然音がして振り返る。音のした座席近くを乗客数人が弧を作って取り囲んでおり、何か重い物が落ちたかと思って見たら、人が倒れていた。
中年の女性が、荷物を手に握ったまま、言葉もなく目をつぶっている。友人なのか母なのか、5,60代の連れの女性が地べたに座らせて背中をさする。中野駅に着き、扉が開いて停車しているが、自分では立って歩けそうにない。ひとりが座席をゆずり、ほか数名で抱きかかえてひとまず座席へ座らせた。
「そこのボタン押してください」
近くの女性が呼び出しボタン横の男性に声をかける。それを受けた男性はボタンを押して駅員を呼び、すぐに駅員から返事があった。
「どうされました?」「お客さんが倒れました」「すぐ向かいます。そちら4号車でよろしいですか?」「えーと、はいそうです」
ほどなくして駅員が階段を上ってきた。扉近くに立っていた乗客2名がスマートフォンを掲げて手を振り、「こちらですー」と駅員をいざなう。乗客が道を空けて駅員を倒れた女性のもとへ通す。
「大丈夫ですか?どうされました?」「貧血みたいです」連れの女性が答え、駅員と共に彼女を抱きかかえて外へ運んで行った。
3人が出て行くと、人々はまたすぐにスマートフォンを取り出して同じ姿勢で画面に顔を向け出した。乗務員の車内アナウンスが続く。
「先ほど、中野駅にて、具合の悪くなったお客様がおられたため、現在4分ほど遅れて運行しております」
電車が運行を再開するまでわずか4分。何事もなかったかのような、いつもの東京の車内。だけど確かに、さっきの一瞬、ここは「開いて」いた。偶然居合わせた人たちが、偶然に倒れた人のために、誰が言い出すともなく手を差し伸べた。言葉が、指が、腕が、ボールを運び、状況を動かした。ヘルプマークもマタニティマークもつけていない。その人が倒れることに、なんの予兆も予告もなかった。突然の、偶然の出来事である。それでもそこにいる僕たちは、動いた。
「お急ぎのところご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
アナウンスは続いたが、とりたてて文句を言う人も見られない。僕も、それから2駅して阿佐ヶ谷に着いたので何事もなく電車を降りた。
「”ご迷惑”の対価としては悪くない時間じゃないか」
乗客がスマートフォンの画面に顔を戻す前、わずかに見せた安堵の色を思い出しながら家路につく。
時間は夜の11時前。退勤ラッシュと終電前ラッシュの間の、短いながらも比較的空いた時間帯だった。もっと混雑した時間帯だったら、人々の反応は違ったかもしれない。中には、イライラをあらわにする人も出てくるかもしれない。僕自身も、どうだろう。その時は近くに立っていて、わずかながらも「助ける側」の人間だった。だけど、その人が倒れた場所がもっと遠かったら?僕自身がくたびれ果てて、座席で目をつぶって眠りかけていたら?動くのがワンテンポ遅れたかもしれないし、先に動き出した人に任せてしまったかもしれない。
「弱者」が偶然であると同様に、「助ける人」もまた偶然のめぐり合わせであるのだろう。
それでも。きっと「助ける人」はいるのだろう。それが僕になるかどうかはわからない。機敏に反応して「最初の1人」になれるかどうかもわからない。だけど少なくとも、その偶然が「ゼロ」にだけはならないように、予備軍としての備えは持っておきたいものだ。ときにくたびれ、ときに酔っ払って帰りながらも、そう思う。
参考記事