1995年に地元・神戸で起こった阪神淡路大震災。当時、小学1年生だった僕は、寝室兼子ども部屋に布団を敷いて寝ており、勉強机の椅子が倒れてきて目を覚ました(と言っても、パイプのかるーい椅子だったので無傷である)。つまり僕も、当時の震災を経験した当事者である、と言えるのだが、阪神淡路の「被災経験」について、僕は語るほどのものをほとんど持たない。
非日常と言えば非日常だったのだろうけど、実際に色々大変だったのは大人たちで、ちびっ子だった僕はお気楽そのものだったと思う。
ひどい揺れだったが、鉄骨構造の我が家は幸いにして無事だったため(食器などは散々に割れ散らかったが)、お家が倒壊してしまった父の友人ふた家族が避難してきて、けっして広くはない家で15人以上の大家族共同生活をすることになった。集まった大人たちは、川までせっせと水を汲みに行ったり、自分たちで配管を修理しようとしたり、その他色々、当時の僕が把握していないことも含めて、いろいろな苦労や工夫をしてこの状況を乗り越えようとしていたのだろう。
大人たちと比べて、僕の思い出はかわいいものである。自宅近くでの自衛隊による救援物資の配給を、親子で並んで受け取りに行ったこと。配給もらえるパンのうち、クリームとジャムが一緒に入ったミックス味のコッペパンがお気に入りだったこと。避難してきた友人家族の子どもたち(全員1〜2歳ぐらいしか違わない)のうち、同年齢の男の子にいつもプロレスごっこで負けて泣かされていたこと。学校が休みの間、やることがなくてやたらと「あやとり」が上達したこと。電気が繋がった日には、大人も子どもも一緒に夢中になってスーパーファミコンで遊んだこと。
そんなわけで、地震発生後からの鈴木悠平少年の生活といえば、合宿所のような家の中と、そこから徒歩5分のコッペパン入手ポイントと、しばらくして授業が再開された、山の上にある小学校の3ヶ所、実に半径1kmで収まる程度の世界だった。
阪神高速道路の倒壊や長田区の火災といった、阪神淡路大震災の物理的な被害を象徴するような「絵」として繰り返しメディアで報道・紹介された地域もあるが、発災当時に直接自分の目で見てはいない。それらは、毎年放送される何らかのドキュメンタリー映像や、学校で配られる記念冊子などに載った写真を通して遡及的に知識でインプットされていき、「あのあたりは大変だったよね」と、地元民としてなんとなくの共通認識として「知っている」に過ぎない。
ライフライン復旧までに多少の不便はあったものの、「日常」は比較的早く戻ってきた。被災したという意味では「当事者」なのかもしれないが、「被災者です」「震災の当事者です」と言うには気が引ける。「忘れないで」とも言えないし、語り部になるほどのストーリーや、何かを「知ってほしい」という切実さも正直ない。避難所暮らしも長田の火事も直接に経験していない小学生の少年にとっては、「震災」や「復興」といった言葉にはそれぐらいの距離感があった。
そんな、「震災」を巡る所在のなさは、2011年の東日本大震災を境に「地元」への近親憎悪的な反発と、「自分より大変な人々」への過剰な謙虚さにつながった。
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2011年の初夏から2012年の秋にかけて、東日本大震災が発生してから最初の1年を、僕は宮城県の石巻市で過ごした。「OCICA(オシカ)」という、鹿の角を漁網で編んだ手仕事商品のプロジェクトの立ち上げ・運営に携わった。担い手となるのは、牡鹿半島という漁村地域のお母さんたちだ。もともと、漁村沿岸部で牡蠣の殻剥き等の水産加工の仕事を担っていた女性たちが、津波で仕事を失ってしまった。地元の人たちが、地元の素材で、特別な設備や技術がなくても始められ、みんなで集まって語らいながらできる仕事。素材を提供してくださる猟友会の方々や、東京で出会ったデザイナー・写真家、販売店の方々の協力も得ながら、プロジェクトは形になった。
本稿で詳しく触れることはしないが、ここでの1年は僕にとってもかけがえのない時間となったし、みんなからたくさんのことを教えてもらい、成長することができたと思う。ただ、プロジェクトが生み出した価値や、受けた反響とは裏腹に、僕自身が東北に行った理由と経緯は、ひどくちっぽけで情けないものであった。
東日本大震災が起こった2011年の3月は、大学の学部卒業と重なる年だった。東北の様子が気になりながらも、同級生の大半は、就職なり大学院進学なり、4月からそれぞれの進路で新しい生活を始めていた。一方僕は、海外の大学院修士課程への留学が決まっていて、2011年の秋からアメリカに行く予定だった。そのため4月から約半年の間、ちょっとした空白ができたのだ。
春先、兄貴分のようなゼミの先輩から連絡があり(ボート部主将で、背も高く声もいびきもでかく、卒業後は総合商社に入った、僕とは正反対の人である)、彼の一声でボランティアに行くことになった。彼の同居人が早期に現地入りしてコーディネートをしているから、自己完結型でしっかり準備して手伝いに行こう、ということになった。初めて行った東北のその地が、後に引っ越すことになる石巻市の牡鹿半島だった。沿岸部の被害はひどく、また市街中心地から距離もあり、悪路だったため、まだほとんど支援が届いていない状況だった。
帰りのレンタカーでその先輩が言う。「これは継続的に行かないとだな。おい、ちょっとボランティア団体を立ち上げておいてくれよ。」で、僕がその団体立ち上げ担当になった。ブログで現地の様子を詳細に書くと、ものすごく反響があった。ボランティアに参加したいという学生・社会人、それからたくさんの活動資金カンパが集まった。あれよあれよという間に、チームが組まれ、オペレーションが敷かれ、ほぼ毎週末に交代制で現地ボランティアに行くという団体が立ち上がった。
5月、6月といつの間にか時間が過ぎる。僕はボランティア団体の運営に追われ、留学準備をほとんど進められないままでいた。奨学金にも落ちて、留学資金の確保も難しくなった。自分自身の留学のためのお金や時間の確保もままならないなか、初めて会う人たちもたくさんいるボランティア活動を僕がうまくハンドリングできるはずもなく、ほどなくして軽い鬱になった。どうしようもない状況になっていたときに、現地でコーディネーターをしていた、先輩の同居人に拾われた(友廣裕一さんという、不思議な旅人である。彼と一緒に上述のOCICAをはじめとするプロジェクトを立ち上げることになる)。ボランティア団体は逃げるようにして同級生に運営を引き継ぎ、大学院には留学を1年延期させる旨のメールを送り、石巻に引っ越すことになった。
そんなわけで、僕の東北行きは「被災地復興支援活動」なんて大層なことではなく、大学も出たのに自分の身の振り方もままならない青年が、ご縁に恵まれて「拾ってもらった」という、非常に弱々しく情けない経緯なのである。復旧を手伝っていた地元の缶詰屋さんの持ちビルの部屋にご厚意で住まわせてもらい、行く先々で海の幸・山の幸をごちそうになり、日頃の生活費はNPOの活動支援金の枠を使わせてもらい…と、「支援」どころか「被災地に養ってもらっていた」と表現した方が正しいぐらいに、何から何まで周りの人たちに助けてもらっていた(あと、地方に行くというのに自動車免許もなくて、引っ越し直後は本当に戦力どころか足手まといであり、先輩にお金を借りて現地の自動車学校に通ったのが最初のミッションだった)。
とはいえ時間が経てば、頼りない青年もそれなりにがんばって適応していき、石巻での暮らしに慣れていくものだ。地元の人たちとお話したり、お手伝いしたり、お茶を飲んだりしながら少しずつ状況が動いていく。いつしか自分が「受け入れ」側になり、散発的に他の地域からきた見学者やボランティアの人の案内をすることも増えていった。そこで僕は、いやーな形で「地元」と再会することになる。
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「神戸の震災経験を生かして東北の復興を!!!」
なんだか妙にテンションの高いボランティアが来たなー、と思ったら、その人が神戸出身だった。そういうことが複数回あった(もちろん全員ではないが)。
その度に僕は頭を抱える。復興課程でのまちづくりや産業再生など、たしかにマクロに見れば参考にできること、反省を活かせることはあるだろう。しかし今はまだまだそんなフェーズではない。ましてや単発ボランティアの作業に、阪神淡路の経験も教訓もないだろう。あなたにできることは目の前の泥をせっせとかくことだ。おまけにそういう手合いの人たちに出身地を聞かれて答えようものなら、「やっぱりあなたも、神戸の震災経験がきっかけで支援に来たんですか!?」などと勝手な物語を期待して同志扱いしてきたりする。事実そうではなかったので、「いやー全然そんなんじゃないんですよー」と曖昧に流していたが、心の中では「頼むからあんたと一緒にしないでくれ」という気持ちだった。
「震災」や「被災地」を巡る言説に関して、何も代表して語ることはできないと思った。
直接の「被災者」ではもちろんないし、「支援者」という言葉もしっくりこない。あの日の震源地にたどり着くことはこれからも永遠にないし、かといって、波打ち際から完全に離れることもできない。わかりやすい足場を持たない半端者の僕は、どの枠組みにもフィットしない。
「被災者」ならば語れるのか。それもなかなか難しい。語るだけのことばがまだ出てこない、まだ語るための心の余裕がないという人も多くいる。そして、個別具体の被災経験は一人ひとり異なるのだ。件の神戸から来たボランティアの人も、本人は本人で当時大変な思いをしていたのかもしれない。だからといってその被災経験は、目の前にいる東北の人たちのそれと決して「同じ」ではない。被害が一番大きい人が正統な「被災者」なのか。「大きい」とはなにか。そもそも、死んだ人は語れない。
被害規模、補償の有無、住居の状況、仕事の有無、世代、価値観、文化的背景……あらゆる条件がバラバラな中、一片のためらいも異論もなく“正しい「被災地」”像を語れる人など、いったいどこにいるだろう。どんな言説も現実の一側面を切り取ったにすぎないから、そこに該当しない者からの違和表明はいくらでも起こりうる。だからこそ、震災後の東北をめぐる言説には、数多くの対立や分断がつきまとう。「被災者」と「支援者」、「地元民」と「よそ者」、「原発推進派」と「反対派」といったカッコ付きの区分けが、その中に置かれる個人の心境には様々なグラデーションがあることを忘れさせる。
それでもなお、今ここで、一人ひとりが見聞きし、感じたことを語るとするなら、どのような語り方があるだろうか。
「被災地」という、カッコ付きの大文字で全体を語ろうとしないこと。「東北の被災者」ではなく、牡鹿半島・牧浜のユリコさんというふうに、僕が一緒に時間を過ごした具体的な土地と人の名前で語ること。それが誠実さだと僕は考えた。実際、そのような小さな単位で、僕の身体は彼の地に溶け込んでいった。被災したという意味での「当事者」であるかどうかではなく、この浜に集まって、一緒に仕事や居場所をつくっていくメンバーの一員としては、その場にいる僕たちはたしかに「当事者」だった。
同じ時間と空間をともにするなかで、次第にちょっとした大家族のような距離感になっていく。その過程で、浜のお母さんたちの顔にも少しずつ笑顔が増えてきた。だけど実のところ、みんなに癒され、ほぐしてもらったのは他ならぬ僕自身だったと思う。
1年間延期した大学院留学へと旅立つときが迫ってきた。プロジェクトの立ち上げ期から約1年、不器用ながらもやれることを精一杯やりきり、一定の役割を果たした手応えも得て、みんなに暖かく送り出してもらった僕には、ようやくかすかな「自信」のようなものが芽生えてきた。
上記のような「震災復興トーク」に辟易としていただけでなく、元々の自分の性格特性から、家族や地元の同級生、もっとあえてマクロに言えば関西のウェットな人間関係にどうにも馴染みにくかった僕は、思春期において「地元」というものにうまく根をおろすことができなかったのかもしれない。大学から東京に出て、さらに震災後に石巻に行って、「第2のふるさと」と呼べる場所を得てようやく、ひとり立ちすることができたのかもしれない。そう思っていた。
ところが事は、そう簡単ではなかったのだ。からまった糸がほぐれるまでには、ニューヨークに渡ってからもう1年の時間が必要だった。
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「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」
2012年の夏に留学してから1年半が経って、2014年の1月。当時書いていた僕のブログを読んだルームメイトに、そう言われた。
ニューヨークに渡ってからというもの、僕と東北や神戸との距離は大きく開いた。物理的距離の開きはもちろんのこと、慣れない異国での生活、大量の課題と講義に外国語で食らいついていく大学院留学、日本にいた頃に付き合っていた彼女との別れ、お金のなさ、将来展望のなさ…頭の中を埋め尽くす悩みごとは山程あった。
だけどそれなのに、いや、距離が開いたからこそ、メモリアルの日には心がざわついた。1月17日、そして3月11日。阪神淡路大震災と東日本大震災の発災日となる日には、知人・友人、その他大勢の人たちのたくさんの言葉がSNS上に流れてくる。
震災にまつわる経験談や、その後の自分の人生への影響、今の想い。なかには、「あの日がきっかけだった」と自分から語れるだけの、今の自分の価値観形成や、暮らし・仕事の変化と震災経験を強く結びつけて語るような言葉もある。それを語る本人にとってはきっと、それが大切な物語なのだし、比べる必要も評価することもないはずだ。だけど、自分の生活の見通しのなさと、厳しい冬の寒さも手伝ってか、そうした投稿を目にするたびに、自分の「中途半端さ」に気後れした。避難所暮らしも津波も大火事も知らない。僕にとっての「被災経験」は気楽でちっぽけなもので、その後の人格形成や生き方への影響するだけの重みなんて無い。
物理的な被害の大きさの問題ではない。自分の経験を語ることにも、死者に向けて祈りを捧げることにも、資格など要らないはずだ。頭ではわかっているのに、語ることと祈ることがセットになっているようなインターネット空間にさらされて、黙祷すること、祈ることが難しくなった。
いま振り返れば「過剰な遠慮」と言っていいだろう。だけど当時の僕にとっては深刻な問題だった。書く以外に気持ちのやり場がなかったので、そんな逡巡をバカ正直にブログに書いた。それを見ていた地元神戸の先輩に「黙って祈れ、ボケ」と叱られた。彼の言っていることは正しい。黙って静かに祈ることができればそれにこしたことはない。何か返事をしようと思ったけれど、言葉を尽くせば尽くすほど、その先輩と地元神戸に不義理を働いているような気がして、結局何も言えなくなった。
「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」
ルームメイトに言われたのは、そんな時だった。
「そうなんですかねぇ」
言われたその瞬間はぼんやり返事をするだけで、すぐにはピンと来なかった。
けれどその後、自室に戻ってひとり過ごしているときに、押さえつけていた記憶が蘇ってきた。
先にも書いた通り、阪神淡路大震災の際、お家が倒壊してしまった父の友人2家族が我が家に避難してきて、しばらくの間、共同生活を経験した。
子どもは総勢7,8人いたか。そのうち1人と僕とはあまり仲が良くなく、同い年で、そいつの方が喧嘩が強いのでよく負けて泣かされていた。彼のお父さんは僕の父の友人であり、同じく我が家に避難していたのだが、彼との親子関係は、別に崩壊しているとか大きな問題を抱えているというレベルではいけれど、しかし何か微妙な、ストレートに愛情が届かない距離感があるようだった。
そのこともあってか、彼は僕の父によくなつき、ついて歩くようになった。
ある日、また近くの自衛隊から救援物資でも受け取りに行く用事だったか、彼と、父と、僕と3人で出かける時のことだった。
「なーなー、鈴木のおっちゃんのこと、お父さんって呼んでいい?」
「おぉ、ええで」
彼と、自分の父とが狭い玄関で並んで靴を履きながらするそのやり取り。玄関が狭いので、一歩遅れて待っている僕。2人の背中。開くドア。
スローモーション映像を見ているような奇妙な距離感で、僕はその様子を眺めていた。
同い年の少年が寂しさからふと口にした言葉であり、父も優しさからそれに応えたのだということはとっくに分かっている。
だけど当時の鈴木悠平少年にとってはそれなりにショッキングな出来事だったのだろう。
「お父さんが取られた」、と。
だけど、特に何も言い出すことなく我慢していた。喧嘩にも勝てないし。この出来事は今までも何度か思い出す記憶ではあったけれど、別にそれが大きく自分の人間性発達過程で響いたとも思っていなかったし、ましてやその程度で彼や父を恨んだりすることもない。
だから、自分の「震災経験」など大したことではない、東北に行くこととも関係ないと、そう考えていた。それなのにどうして、神戸の震災を語るときに不必要なまでに抑制的になってしまうのだろう。どうして「地元」に対して頑なでひねくれた態度を取ってしまうのだろう。それが不思議だった。
「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」
言われてこの出来事をもう一度思い出した。
「あっ」これかぁ。
そうか、僕は傷ついていたのだな。震災で。
ここまで理解してようやく、自分の中での神戸と東北、1.17と3.11が繋がった。
家屋自体は無事だったけれど、家を失った友人2家族が逃れてきた当時の狭い我が家は確かに「避難所」だった。そのとき僕は我慢をしていて、その我慢の癖を引きずって今でも生きているようだ。
災害や紛争、その他さまざまな困難や事件が起こった地域に住む子どもたちの「心の傷」ということがよく言われるが、その実態はもしかしたらこんな小さな、無数のエピソードの集まりなのかもしれない。東北出身者である同世代の友人たちが、「地元は嫌いだったんだけど、震災後にやっぱり帰ってきちゃった」と語りながら地元にUターンして活動することも、僕と似たような「地元」なるものへの近親憎悪と甘えと、その受容の結果であるのかもしれない。
繋がるまでに19年かかった。「地元」とちゃんと向き合い、「阪神淡路の震災体験」を自分の出来事として受け止めるのに、上京して、石巻に住んで、NYに渡って、文章を書いて。こんなにも時間がかかった。
「神戸出身なら当時の震災も大変だったでしょう」
「やっぱり神戸の被災経験があったから、こうして東北に関わっているんですか?」
「若いのに東北の復興のために身を捧げて、すごいですね
」(ちょっと、待ってよ、やめて、そんなんじゃない。)
自分自身に実感が沸かないのに、「神戸」と「東北」を一足飛びに結び付けられるのが嫌だった。「被災者」枠、「支援者」枠、「当事者」枠、「神戸」枠、「東北」枠、「フクシマ」枠、「復興」枠…そうした区分けや言説のどこにもフィットする感覚を見いだせなかった。何を聞かれてもあんまりうまく「理由」を答えられなくて、ヘラヘラと受け流していた。だけれども、それだけで自分の戸惑いを誤魔化しきれるはずもなく、結局何度も書いて、考えてを繰り返すことになった。
「きっとあなたもどこかで傷ついていたのよ」
掘り当てた記憶は、あまりにも子どもっぽくて、あまりにも個人的で、なんだか笑ってしまう。
だけど、そんな「小さな傷」を認めてようやく、東北で被災した人たちの痛みに、ほんの少しだけ触れることができたような気がした。同時に、生まれ育った神戸のことも、素直に祈れるようになった。
「被災者」「支援者」「部外者」――カッコ付きの肩書きで見れば違う立場だと分けられがちな人同士でも、一人ひとりが自分の内面を見つめていけば、きっとどこかで接点はある。だけどそれには、長い時間が必要なのだ。
一人ひとりが、自分の声をきき、絶えず「」(カッコ)を外していくこと。上から吊り下げられた「正解」ではなく、その時その時の自分の琴線に沿う単位で語ること。それを見つけるまでの時間と、ぎこちなさを、自分にも他人にも認めること。
「当事者」というくびきからのがれて、<わたし>と<あなた>がつながる瞬間があるとしたら、きっとそんな小さな営みを積み重ねた先なんだと思う。
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Photo by Lyie Nitta