「弱った自分」に、はなまるをあげること

弱っている。

日頃の様子を身近で見ていたり、Twitter見ていたりする人からすると「もう知ってるよ」という話でもあるし、隠すことでもないと思っているので書くが、まぁ弱っている。今の会社で働き始めて5年目になるけどその中で一番かもしれない弱りっぷり。およよ。

しかしこれはこれで、自分にとってちょうどいいタイミングで、必要な変化の時期なのだろうな、と思う。思う一方で焦る気持ちもまだゼロではないのだけど、そう捉えて言い聞かせることを続けることも含めて、必要な時間だな、と思う。

「あー、これはヤバイな」と思ったタイミングで通院をしたり、周囲のしかるべき人に相談できたことは不幸中の幸いである。やはり知識は人を救う。

適応障害と抑うつ状態、という診断を受けて、寝る前に処方された抗うつ薬を飲むという生活ルーチンが加わった(2回ほど早くも飲み忘れたけど。さっき再診して先生に「コラッ」って言われた)。

自分から症状についてはすぐに上長にも伝えたんだけど、幸いなことにとても理解のあるサポーティブな職場だから、これを機会にちょっと荷物を降ろしてどうフォーカスしていくかという相談に乗ってもらえていて、それでとても楽になった。

僕はいわゆる中間管理職という立ち位置にいるのだけど、チームメンバーの中にはまぁTwitterで僕のつぶやきを先に見ていた人もいたし、自分からも今こういう状況で元気ないっすというのを定例MTGで言ったりもしたのだけど、まぁほんとにありがたいことに日々の定常業務に関しては何も問題ないっていうか、なんなら僕の特性やキャパを踏まえて絶妙に巻き取ってくれたりするので、うわー僕弱ってるけど全然大丈夫やんすげーってな感じの頼もしさで、はい、救われています。

こういうのは、「順番」なのだと思ったよ。

マネージャーだから、とか、若いから、とかではなく、今たまたま僕にそういう「順番」が回ってきた。それを、今たまたま余裕のあるみんなに、支えてもらっている。

だからまた別の人に「順番」が回ってきたときには、今度は僕が、とも思う(今はそんなこと考えなくていいってみんな言ってくれると思うけど)。

妊娠・出産・子育てが大変だという時期もある、心の病気になってエネルギーが落ち込んでしまうということもある、交通事故で手足が不自由になることもある、恋に破れて涙が止まらないってこともある、うっかり季節の変わり目に夏風邪こじらせちゃうこともある、若さと過剰さをこじさせてもやもやモラトリアム袋小路に至ることもある。

その時にたまたま、相対的に弱っている人がいて、相対的に余裕のある人がいて、その中で一緒に長くどう働いていこうか、お互い様でどう乗り越えていこうかって話。

順番交代なのである。




さっき、症状が出てから二度目の通院をしてきて(夜遅くまでやってるのよ)、先生には「そうやって自己分析をして早めに対処できてるのがすごい。もっとひどくなるまで来れない人、休みたくても休めない人もいるから」って言ってもらえた。

「服薬始めたし、業務調整もしているし、大丈夫かなって思ったけど、昨晩はなぜかポロポロ涙が出ちゃって。あー、これはもうちょっと長期戦なんだなぁって、改めて自覚しましたよ」って言ったら、「そうだよ、負荷を減らした状態で3ヶ月ぐらいかけて休んでいって、6ヶ月後ぐらいにまた最高のパフォーマンスが出る、それぐらいの時間軸で考えるぐらいだよ」って教わって、それでまた、自分の中に適切な時間の物差しができたって感じ。




今日、会社に行く前に、ツマに以下のようなメッセを送ったのだけど、

「やっぱり抑うつがあるし、エネルギーの総量も落ちているから、やることも絞って、焦らず無理せず、まずはなによりも自分の心と体を守ることをちゃんと自分の責任としてやっていこうと思います。どうしても「登っていく」プレッシャーに追い立てられるようになるけど、この歩き方が十分立派なスピードなのだと自分に言ってあげたいと思います。」

返ってきたひとことが

「はなまる!」

って。

ああ、これはほんとにそうだね、そのとおりだなって。思った。

現状これが自分の「総量」で、今のスピードが十分立派ではなまるなのだと、自分で自分に言ってあげようと思うよ。

そして他の誰かが、僕と同じように弱ったときに、それでいいよ、はなまる!って言ってあげるんだ。

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はなまる。


「私は発達障害なのか?」問題に直面した生きづらめなオトナ達に贈る長い手紙、あるいはひとりごと

「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

最近、そういう相談、あるいは悩みの開示を受けることが多くなった。

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

相談してくれる人たちは、なんというか往々にして「真面目」だ。
責任感も強く、自分の職場や仕事に対しても一生懸命取り組む。
でも、なぜか仕事がうまくいかない。少なくとも本人はそう感じて苦しんでいる。

真面目であるゆえに、人一倍努力してなんとか乗り切ろうとする。
「これはきっと、自分のビジネスパーソンとしての努力や工夫、成長が足りないからだ」
自分の責任問題にして「頑張って」解決しようとするわけだ。
それでもやっぱり、仕事のエラーが頻発する。
自己肯定感は下がり、だんだんと心身の不調につながっていく。
「決して自分は怠けているわけじゃないのに、どうしてうまくいかないんだろう。もしかして…」

悩みに悩んだ状態で出会ったのが、「発達障害」という概念。
冒頭のように相談をしてくれるのは、このような経験・逡巡の末であることが多い。

僕は、「ふーん、そっか」とは言いつつも、けっこう他人事じゃない心持ちで彼・彼女らの話を聞いている。

なぜって、他でもない僕自身が、「発達凸凹さん」の一人だからだ。

僕はいま、LITALICOという会社で働いている。「障害のない社会をつくる」というビジョンのもと、多様な個性を持った人々が、一人ひとり自分らしく生きられる社会に向けて、学習支援や就労支援、インターネットメディア事業などを展開している企業だ。僕は、発達が気になるお子さんが通う学習支援教室「LITALICOジュニア」での指導員や新卒採用等を経たあと、現在は発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」の編集長を務めている。

あまり「支援者」「被支援者」という区分けは好きではないのだけど、「発達凸凹さん」の僕が、世間的には「支援者」の側に位置づけられるようなお仕事をしています。

「発達障害」は、先天的な脳機能の発達の偏りと、その人が生きる社会環境との相互作用の中で、社会生活上の困難さが生じる障害の総称である。医学的な診断名としては、注意欠如・多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害や高機能自閉症を含む)、限局性学習障害(LD)といったものが代表的である。

人間誰しも違った個性を持っているのが、発達障害といわれる人たちの場合、注意集中、興味関心、読み書き能力といった特性の凸凹が著しく大きいことが多く、「平均的な発達」を前提とした社会慣習やコミュニケーション方法、働き方などとのミスマッチが起こりやすくて苦しむことになる。

テレビゲームのRPG(ロールプレイングゲーム)をやったことがある人なら、ステータスのポイント振り分けがものすごい極端なキャラクターを想像してもらえればイメージしやすいかもしれない。勇者ではなく魔法使いとかバーサーカーとか。
 
 
ここで重要なのは、能力という意味では生涯を通して人間はそれぞれに発達していくものの、ベースとなるその人の先天的な個性ー発達障害の文脈では「特性」と呼ぶことが多い、の傾向は、あまり変わらないということである。

つまり、発達障害はひと昔まえに言われていたような「親のしつけの問題」では決してない。

それよりも、その子どもが持っているありのままの特性を理解し、その子が学びやすい教材や学習方法、その子が理解しやすく楽しめる方法での対人コミュニケーション方法などを早期支援を通して見出していくことが重要だ(その意味で、しつけの問題ではないにしても、保護者に対する発達障害に関する正しい情報提供や支援は必要になる)。

もうひとつ重要なことは、特性の凸凹が大きかったとしても、具体的な「障害」ー困難と言い換えても良い、が生じるかどうかは、その人が生きる環境との相互作用の中で決まってくるということだ。

発達障害的な特性をその人が持っていたとしても、環境の側を変えたり、自分の居場所や関わり方を変えていくなかで、「障害」は回避・解消し得るわけである。

ブロガーのシロクマさんが「『よく発達した発達障害』の話」という記事でも語っていたが、そういった環境調整がうまくいっていた人は、発達障害的な特性を持っていても、必ずしも診断が必要ではなかったり、困難や障害をあまり感じていなかったりする。

つまり、一口に「発達障害」といっても十把一絡げに語ることはできず、その人自身の特性と、その人が生きる環境との相互作用のなかで、個別に分析し、必要な支援をしていくべきことなのだが、その個別性ゆえ、「ここからここまでが発達障害」という線引きはほとんど不可能だ。そのことが、働く発達凸凹なオトナたちを悩ませているのだと思う。

社会全体としては「発達障害」という言葉や概念の認知自体は格段に広まった。
でもまだ、あらゆる場面であらゆる人に対して個別具体な対応ができるほど、社会は成熟しきっていない。

社会の進化がまだ過渡期にあるということと、自分自身のキャリア上のつまづき、行き詰まりが重なって、「私は発達障害なのか?」問題が顕在化するのだろう。

「顕在化」と言ったのは、その人はそれまで「私は発達障害なのか?」などとは意識せずとも生きてこられていたのに、プレイヤーから管理職への昇進タイミングや、それまでたまたま自分に合っていた部署や職場からの異動タイミングで、急につまづきが発生する、というケースが少なくないからだ。

クライアントの懐に潜り込むのがめっちゃうまくて営業で大型受注するとか、データ分析だけはめちゃくちゃ得意で良い示唆を出せるとか、ものすごくピーキーなスペックを持った発達凸凹さんは、職場や役割によっては活躍できたりする。

その一方で、事務処理タスク漏れまくりだったり、相手に合わせた社交辞令的コミュニケーションがほとんどできなかったりとかするんだけど、学生時代とかファーストキャリアでは、周囲や上司に恵まれてどうにかなっていた、ということも少なくない。それが昇進・異動を気に周囲の期待値や「常識」が変わってつまづくのである。

それまで意識や獲得の機会もなかったのに、急にビジネススキルの「基礎」がなってない、みたいに言われてしまうとなかなかしんどいものがある。

大人が発達障害という「概念」と出会い悩み出すのは、そのようなタイミングであることが少なくない。
 
 

 
 
本質的には、多数派の側に合わせて多くがデザインされており、多様な人たちの個性が活かしきれていない社会の側にこそ課題があるのだということは強く言っておきたいが、とはいえ社会を変えるには時間がかかる。

現在進行形で悩んでいる「私って発達障害かも…」なオトナたちとしては、社会変革を望みつつも、どうにかこうにか自分でサバイブする術を見つけていくしかない。

僕自身もその一人ではあるし、自分が直接関われる範囲、自分の職場の部下・同僚とか、相談してくれた知人・友人に対してできることはするつもりでいるが、あいにく悩める人たち全員を救うような魔法のステッキは持ち合わせていない。

だけど、何はなくともこの2ステップ、という大きな方略と、具体例としての自分の特性や対策ぐらいは参考程度に紹介できる。

ステップ1. 自分の特性をなるべく具体的に把握すること
まず何よりも自分自身のことを知ることがスタート。案外、自分は自分のことを曖昧にしか理解していないものだ。特に「発達障害かも…」モードになって悩んでいるときは、発達障害というワードやADHD等の診断名に引きずられて、自分自身の具体的な特性として、何がどの診断基準や症状事例と一致しているのかそうでないのか、冷静に整理できていない場合が多い。

詳細は以下の参考リンクに譲るが、自分の認知特性・機能を項目ごとに数値化し、検査者がフィードバックしてくれる「知能検査」・「心理検査」をクリニックで受けてみたり、発達障害当事者が集まって、自分の困りごとを共有し、その原因や自分自身のことを探求していく「当事者研究」の集まりに参加してみたりすると良いかもしれない。

(参考: 知能検査の一例「ウェクスラー式知能検査」)
(参考: 綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』)

ポイントは、「○○障害」にとらわれるのではなく、ひとつでも、具体的に、具体的に、「自分のこと」を明らかにしていくというプロセス。次に解決策を考えていくわけだけど、案外、「あ、私ってこうだったんだ」って分かるだけでも気持ちが楽になることもある。

たとえば僕の場合は、こんな特性がある

・注意の転導性が高い
⇒ひとつのことに集中していても、別の事柄にカットインされるとすぐ注意がそちらに奪われてしまう

・視覚刺激への反応が高い
⇒家とか居酒屋で人と話しているときにテレビがついていると思いっきりそちらの光に注意を奪われる

・聴覚刺激への選択的注意が弱い
⇒上の特性と合わさってテレビに引っ張られ、よく妻に「話聞いてなかったでしょ」と言われるw

・文字に起こして枠組みを設けて思考しないと気持ちが悪い
・図とか写真などのビジュアルでの感覚的な理解は苦手
⇒メールや話が長いし理屈っぽくなる

・空気を読みすぎてしまって空気が読めなくなる
・その場において求められている自分に合わせようとする
・「確固たる自分」を求めてはいるが、自己像は他者との関わりのなかで常に揺らぎ、変容していく
⇒過剰適応というやつです。だいたい夜に一人反省会する

他にも色々あるけどまぁこんな感じ(笑)

ステップ2. 自分の職場をサバイブできる環境に近づけていくこと

自分の特性を理解したら、日頃の生活・仕事で生まれる得意不得意や失敗が生じる理屈も、なんとなく仮説を立てられるようになる。そうすれば、失敗経験に至る前に環境を変えて予防したり、不得意な業務を誰かにお願いして得意な業務に集中したりと、対策を立てることができる。もちろん働く上ではなんでも100%思い通りにとはいかないけれど、それでも動かす余地はたくさんある。

・スケジュール管理や作業の仕方など、自分で変えられる部分は自分用にチューニングする
・周囲に特性は開示しないが、自分からの働きかけを工夫してみる
・周囲に開示し、理解も得たうえで「合理的配慮」が受けられるよう相談する
・そもそも職種や職場、雇用形態を変えてしまう

などなど、職場の理解度にもよるが…働きかけのレベルは色々ある。

オススメなのは、「自分のトリセツ」をつくること。発達障害かどうかではなくて、上記のような具体的な特性とその「取扱方法」を周囲に発信する。自分だけでなくて、発達障害特性のない人も巻き込んでフラットにやれるとなお良し。「まぁお互いさまだね」って気づきやすいから。

足の不自由な人にスロープが、目の不自由な人にメガネがあるように、発達の凸凹がある人だって、上手く周りの石をどければ歩きやすくなるってものです。

参考: 「【大人の発達障害】仕事での困りごと・就職方法・対処法まとめ」
参考: 「合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて」

僕の場合も、上記のように色んな凸凹があるわけだけれど、考えようによっては特性の偏りは強みにもなるし、強みを足場として苦手にも対処できるようになってきた。

ライターや編集者といった仕事は、言語性の高さを活かす上での天職だと思うし、
ビジュアル・デザイン面はからきし苦手だが、業務やコンテンツの目的を「言語化」できれば、デザイナーさん他、得意な人に具体的な依頼ができる。
最近は部下も増えて、プロジェクトマネジメント的な仕事も多くなってきた。同時処理や迅速な判断が必要になるので苦手分野とも言えるのだけれど、とにかく自分が学んだ視点や方法論を、言語やフレームに落とし込んでいくことで、少しずつ自分なりのやり方が見えてきた気がする。

発達障害のある人の中には、苦手を補って余りあるほど傑出したクリエイティビティを発揮して一芸に秀でたような人もいる。だけど、みんながみんなそうならなくたっていい。

地道な戦いだし、決して人生イージーモードではないと思うけれど、それでもきっと、誰だって自分なりのサバイバル戦略は見つけられるはずだ。僕はそう信じている。
 
 

 
 
「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

冒頭の相談に、どうしてこんな淡々としたリアクションを取るかというと、
まず第一に、僕にとってそれは「どちらでもいい」ことだからだ。
あなたが発達障害であろうとなかろうと、今まで続いてきた僕とあなたの関係性が、それだけで変わるはずもない。

もう一つの理由は、診断名を白黒ハッキリつけることが、本人にとっての正解なのかどうか、究極、「分からない」からだ。

こうやって相談してきつつも、やっぱり実際に診断がついてみたら、「私」はこれからどうなるんだろう…?と、不安が大きくなる人だっている。
一方、医師に確定診断を受けたことで、「嬉しかった」「救われた」「自分が怠けてたんじゃないとわかってよかった」と、ポジティブな気持ちになれる人もいる。

「発達障害」というラベルをその人が自身のアイデンティティにどう取り込むか。
それは本人の気質や心境によっても変わってくるだろうし、周囲の人々や環境の寛容度(への期待値)の高低にも影響される。

相談者に対して、僕が何かをジャッジしたり誘導したりすることはできない。
できることは、自分にとっての「正解」を探すための、整理・内省のお手伝いぐらいだろう。

・知能検査・心理検査で特性を把握すること
・医師に発達障害の確定診断を受けること
・障害者手帳を取得すること
・配慮を受けやすい障害者雇用枠で求職・就職すること

これらは決してイコールではないし、全てのアクションを取る必要もない。

発達障害傾向の無い人でも、知能検査・心理検査は自分を知る手段として悪くないと思うし、発達障害の診断があるからといって、必ずしも手帳を取得したり障害者雇用で働くわけでもない。

診断とって楽になるのなら取っちゃってもいいと思うし、ラベルを付与されることにやっぱり迷いや抵抗があるなら無理に結論を急ぐ必要もない。

どちらでもいい。

僕の場合、医師の確定診断は特に受けていない。

WAISという知能検査は受けた。言語性がめっちゃ高くて、知覚統合とか数的処理が弱く、まぁ凸凹大きいよね、と笑える結果ではあった。

医師も人間なので、診断結果は人によって振れ幅がある。
過去の生育歴や検査結果を持って一生懸命困り感を訴えれば、診断をつけてくれる人もいるだろう。
「いやあなた、もう十分社会で適応できていますよ」と、診断をつけない人もいるだろう。

そのぐらいのグラデーションだと思うから、まぁなくても別にいいかなって感じ。

今よりもっと悩んでいた時期もあった。
こんだけこじらせて生きづらいのは、自分がやっぱり発達障害なんじゃないだろうか?
ただ、当時を振り返ると、自分のことがぼんやりとしかわかっていない状態で、悶々と足踏みしている感じであった。
その経験から言うと、まず何よりも、「自分自身の特性を把握すること」は必要だと思う。

そうすれば、次の足場が見えてくるから。
診断や手帳を取るかどうかという話に飛ぶ前にも、目の前の環境に対して、できることがたくさん見つかるから。

世間的、あるいは会社的に定番の「キャリアパス」に囚われなくていいから、ちょっとでも強みを活かしてパフォーマンス発揮できることを探す。
言うても社会人やっていく上では苦手なことはゼロにはならないから、苦手を把握して周囲の人にSOSを出す術を身につける
それから、職場内でも外でも、とにかく1人でも、相談できる「味方」を見つける。
そして、前々回の記事でも書いたが、「つかれたら、休め」
(発達凸凹かつ生真面目な人、二次障害で精神疾患なりやすいのよほんと。いのちだいじに)

「私は発達障害なの?そうじゃないの?」問題。

一見難問なのだけど、答えはどっちなのか?と抽象的な「問題」に振り回されるばかりなのはもったいない。

少なくとも、僕にとっては、あなたが自分をどちらに規程しようと「どうでもいい」。

ただただ、あなたがどうにかサバイブできる方法にたどり着けることを願う。
そして僕自身も、危うい自分の生をサバイブできることを願う。

ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

役に立たないし、救わない。いわゆる「生きづらさ」というやつに対して。

そりゃあなんでも、得意・不得意に好きも嫌いもあるだろうが、俗世の人生は、それが続く限りは絶え間なく変化してくれるのが救いである。

ビジネスだろうと対人コミュニケーションだろうと、向き不向きはあるが、訓練次第で相当程度は技術的に習得・克服が可能である。やっかいなメンタルヘルスというやつだって、食事と睡眠と運動(+重度なら薬と精神療法)で、けっこう物理的に対処可能だと理解している。

けれど、それら俗世の処世術がうまくいくことと、生きづらさの解消が地続きにあるかといったらたぶんそんなことない。

「生きづらさ」というものの原因究明それ自体には、実はさしたる興味も希望もなく、ただそれが、世俗的な成功とか人気とか健康といったものとは質的には異なる、なんつーかこう、テクニックで解消出来る類のものではないだろうと思っている。

誰もがうらやむトップスターであろうと、市井のサラリーマンであろうと、彼彼女らがどんな孤独を抱えているかを、私たちには知る由もないし、決して共有することもない。

一人の人間が根底に抱える「生きづらさ」なるものに対して、他人が役立てることはほぼなくて、「あなたの生きづらさを解消します」というのは、実はだいぶおこがましい。「社会」とその構成員たる私たちに出来るのは、死なないセーフティネットを可能な限りきめ細やかに張りめぐらせることと、多様な人が、どうにかこうにかしがみつける仕事・役割をなるべく増やすこと、パンとサーカスでつかの間の遊興と幻想をもたらすぐらいしかないだろう。

「生きづらさ」を抱えている(であろう、と感じられる)人が身近にいたとして、一個人たる「わたし」に出来ることは、「お互い大変ですねぇなんのお役にも立てませんがあなたが幸せだろうと不幸だろうと成功しようと失敗しようとわたしはずっと見てます見守ってます、、、フレーフレー」と、そういう力のないメッセージを発し続けるぐらいにしかないと思う。

なので私は、「仕事」をする上では構造とか環境をいかにプラクティカルに変えるかということに注力するけど、結局クソの役にも立たない文学が好きだ。

働き続けるために自分を守ること

行き先は分かっているのに、駅の構内地図前でしばらくぼーっと立ちつくしていた。
そのことに気づいてからもしばらく動けないでいた。
地図を見る視線と焦点が定まらない。これはまずいなと自覚した。

エネルギーの総量が減っている。対人業務とか急ぎの書類だけ瞬間最大風速で乗りきってる感じ。それも徐々に消耗する。

仕事に関して、今年は変化が大きい。
新しいプロジェクトを同時並行で走らせながら、出来たばかりの組織の今後の展開について考えなければならない。
プロジェクトごとに関わる人はいるのだが、フルタイムの同僚や直上の上司がいるわけではないので、なかなか難しい。
「変化は自らつくるもの」と教わり、心得ている。
組織体制については周りと相談しながら、少しずつは進んでいる。
とはいえ、コミュニケーションや時間配分について、自分で制御しきれないしんどさはある。
また、未来を見据えて計画を立て、それを相手に伝えて状況を動かす、というのにはエネルギーがいる。

この状況が一朝一夕で楽になるものではないし、自分にとっても重要なステージではあるから、投げ出さず続けて、動かし切るつもりでいる。
直近コントロールできるものは何か。自分自身の生活である。時間の使い方である。

ストレスチェックをするとけっこう高く出た。
このまま放置すると不味いなという自覚を持てるぐらいには冷静で、とはいえ日常のパフォーマンスや集中力は明らかに落ちていて気分も沈んでいるから、今月は自己防衛を最優先にすることにした。

仕事で認知行動療法だの行動変容だのマインドフルネスだのレジリエンスだの自己決定だの当事者研究だの言っている場合かというものである(笑)
(社内や同界隈の友人ともよく話すが、対人支援職のヘルスケアというのも冗談ではなく重要な社会課題であると思う)

働き続けるために、より多くのことを成し遂げるためにも、自分自身を守るということは重要だ。
頭では分かっていても、目先の仕事の忙しさ、周りの期待値の内面化、休むことの機会損失などなどで、なかなか踏ん切れないのが20代後半の働き盛りだと思う。

こういう時はルールを作って可視化するのである。そして計測する。
目標は達成可能なものからスモールステップで取り組む。
結果が即時に見えるフィードバックの仕組みをつくる。
ってこれ、普段他人に言ったり教えたりしてる方法じゃないか(笑)

というわけで、以下のような行動指針をつくった。
Googleフォームで日次で達成状況をチェックして蓄積し、週次で評価をする。12月はこれで様子を見つつ、年明けに振り返って1月以降より適切な指標に調整していきたいと思う。

基本方針としては、1)無理をしないこと、2)睡眠を最優先項目とすること、3)対人交流を制限すること、の3点を重視する。なので下に書いた事項が全て達成できなくても良い。心身の回復度合いにともなって柔軟に調節していく。「丁寧な暮らし」にはほど遠いが、死なないための暮らしが出来れば上出来とする。

飲食に関しては基礎知識と健康意識もあり、そこまでひどい生活はしていないと思う。
が、人付き合いが多いため、流されて飲み過ぎるとか、仕事で帰りが深夜になるとか、その結果寝付きも寝起きが悪く、朝食も食べない…とか、そういった仕事や人間関係による悪循環の要素が大きいと思う。脱、NOと言えない日本人

こうして書き出してみるとそれだけで多少気分がすっきりするものである。

手遅れになるまえに生活習慣を立てなおそうと思う。

■睡眠
・7時間の睡眠時間確保を最優先とする
・電気を消して寝る
・シャワーを浴びてから寝る
・パジャマに着替えて寝る

■運動
・無理して強度の運動はしない
・週に1度、30分〜1時間程度の散歩をする
・夜寝る前にストレッチを行う
・朝と夜に5分程度の瞑想を行う

■食事
・家で朝食をとる。納豆、バナナ等時間のかからないものを少量でも良いので摂取して外出する
・昼食では、糖質の低く、あたたかいものを、可能な限り摂取する(コンビニおでんなど) 
・来客・ランチMTG等で外食する時は注文時に分量を減らすようにお願いする
・家で夕食をとる。ゆで野菜や海藻、豆腐等を中心にあたたかいものを摂取する
・作りおき、栄養バランス等、気にしすぎるとキリがなくかえってストレスのもとなので、基本的に上記以上のことを自分に求めない

■飲酒
・しばらく控える
・付き合いの場では最初の一杯だけ飲む。あとはノンアルコール
・二次会には行かない
・断ることが可能な予定は年内全て断る

■仕事
・21時までには退勤する
・極力昼休みをとる

■臨床的介入
・直近、可能な日程でメンタルクリニックに行く
・その日の場面から非機能的なものがあった場合、1つをピックアップし、以下のフォーマットで認知再構成法を使う。
(参考: 大野(2014)、「認知行動療法の基礎と展望-特集-認知行動療法」、PTジャーナル第48巻第12号)

12/12/2015

状況
知人に誘われたメンタルヘルス関係のワークショップに参加した。前半スピーチセッション中も頭がボーッとしてあまり集中できなかった。後半グループワークでは、精神障害当事者が運動をするきっかけや方法を考えるワークであったが、自分のテーブルは議論が発散している様子で、交通整理の必要を認めたが、脳がうまく回転せず、この場に貢献できないと思ったので、開始早々に「予定があるので」と言って退出した

気分
不安と焦り

自動思考
いつもならもっとうまく話せるのに、今日この場では何のパフォーマンスも発揮できていない。このまま時間を過ごしていても役に立てないし自分にとっても良いことがない。とても誰かを支援できる状態ではない。情けない。

根拠
同程度の規模、似たような話題や方式の対話の経験はあり、自分も参加者もより活発にかつすっきりと議論を整理することができることの方が多いのに、今日はまったくそのようでなかった。普段の業務上、より緊張感と要求度が高い仕事を抱えているのに、オフの場でこのパフォーマンスではまずいと思った

反証
人間、心身ともに疲れがたまるとパフォーマンスが下がるのは生体反応として当然のこと。同じ人間、同じような話題・活動でもうまくいかないことは当然ある。

気分の変化
その場で自分のコンディションを判断して、退出・休息を最優先と判断できたのは良かったと思う。